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”運命的な出会い”とは一体どのような出会いなのかを考える。

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皆さん、おはこんばんにちは。

雨宿時雨と申します。

 

さて、本日12月25日はクリスマスでございます。

『クリスマス』と言えば、皆さんは何を思い出されるでしょうか。

チキンやケーキ、シャンパンなど美味しい食べ物、クリスマスツリーやイルミネーションなどの美しい装飾品、サンタ、トナカイ、プレゼント…。

そんな楽しいワードが次から次へと出てくるクリスマスには、やはり家族やカップルで過ごす予定の人も沢山いるかと思います。

 

…そういえば『カップル』で思い出しましたが、先日私は中学生時代の旧友と食事をしてまいりました。

久しぶりの再会ともあって思い出話や他愛無い話に華を咲かせておりました。

そんな最中、私たちもそろそろ結婚を考える時期になってきたということなのか、最近の恋愛事情の話へと移り変わっていったのです。

話を聞いてみると意外に各々しっかりと恋愛をしているようで、中にはマッチングアプリ等を使って積極的に出会いを求めている友人もいるくらいでした。

 

かく言う私は、彼女いない歴=年齢の万年〇貞男でございます。

そこには付き合うのが面倒くさい、趣味に没頭したい、お金を掛けたくない…などの理由も含まれますが、一番大きいのは「運命的な出会いがしたい」という〇貞ならではの拗らせがあるからです。

そこについては「運命的な出会いなんてあるわけない」「現に出会いがないのだからマッチングアプリを使った方がいい」などと友人にも一喝されました。

 

ただ、正直に言ってしまえば、”付き合う”という行為そのものが面倒くさいと思っているのにも関わらず、わざわざ出会いにお金を掛けるのはどこかアホらしくも感じます。

その点、非現実的なことを承知の上、恥を忍んで言うなれば、漫画やアニメのような”運命的な出会い”をすれば、面倒くささも解消され、お金も掛からずに済むような気がするのです。

もちろん、”拗らせ”と一言で片付けてしまえば単純な話ですが、それでもお金などの面を考えれば”運命的な出会い”に勝るものはないと思ってしまいます。

 

とは言っても、今の時代の出会い方というのは本当に様々な形があると思います。

学校や職場はもちろん、マッチングアプリやSNS、紹介、旅先…などなど、インターネットが主流になった今だからこそ、出会い方はかなり多くなっている気がします。

そんな多くの出会いの中で”運命的な出会い”を目指している私ですが、そこでふと思ったのです。

 

果たして、最もロマンス感溢れる運命的な出会い方とは一体どのようなものなのか…と。

 

例えば、男女が親しくなる割合として最も高いであろう学校や職場での出会い

そういった出会いに対し一般的な人物であれば以下のように言うことでしょう。

『70億の人がいるこの世の中で偶然集まった数百人うち、たった一人の人と出会えたことはまさしく運命的だ。』

 

確かに、”70億”という膨大な母体数の中、たまたま偶発的に抽出された数百人の中に理想的な人物がいるというのは本当に希少なことです。

それも学校や職場という本人の労力が伴わない環境下で”70億分の1”を引き当てたわけですから、そういった出会い方をした彼らは相当な運の持ち主と言えます。

 

しかして、ここで私は考えたいのです。

果たして、本当にその”70億分の1”は『運命的』と言えるものなのでしょうか。

 

人はこの世に住む限り必ず何処かで誰かには出会います。

もちろん、その”何処か”は何も最初から決められているわけではありませんし、ある程度の自己選択の余地はあると思います。

 

しかし、その結果として「何がある/ない」「誰がいる/いない」といった中身を決めることはまずできません。

そういった”中身が未知数”という意味では、ここでする『自己選択』はあくまで”ブラックボックス”を選んでいるにしか過ぎないことになります。

まさに”シュレディンガーの猫”状態ということなのです。

 

そうして考えてみると、この世の中における出会いというのは全て”70億分の1”の確率であると言えるのではないでしょうか。

隣に老夫婦が住んでいることも、近くのコンビニに可愛い店員がいることも、学校に良い教師がいたことも、職場に性格の悪い上司がいることも、もちろん、学校や職場に理想の人物がいたことも…。

それら須く運命の巡り合わせであって、全ての出会いが”70億分の1”の確率なのです。

つまり、この世に住んでいる、即ち、生き続ける限りは永続的かつ強制的に”70億分の1の出会い”を作り出していることと同義なのです。

こうして多発する”70億分の1の出会い”は果たして本当に『運命的』と言えるのでしょうか。

 

そういった意味では、現代における出会いの主流であるマッチングアプリもまた同じことでしょう。

 

確かに、マッチングアプリも大多数の母体数の中から抽出された集団であり、その中から理想的な人物を見つけるのは至極難しいことと言えます。

しかし、その反面マッチングアプリには『出会いが強制される』という前提があります。

その前提は言い換えれば、出会いを”必然化”させているのと同義であると言えます。

つまり、そうした”出会いの必然性”を持つマッチングアプリは正しく前述した出会いと何ら変わりはなく、そこでの出会いは『運命的』とは到底言えないものとなってしまうのです。

 

また、マッチングアプリにおける出会いと前述した出会いには『そこに本人の労力が伴うか否か』という点において大きな違いがあります。

 

前述した通り、学校や職場などでの出会いはある程度の自己選択の余地を残しつつも、この世に住んでいる限りは本人の意思に関わらない強制的な出会いです。

つまり、出会うこと自体に本人の労力が伴うことはないということになります。

一方、マッチングアプリなどでの出会いは「そもそも登録するか否か」「登録先は何処にするか」…などと常に自己決定が求められ、出会うこと自体に本人の労力が伴うこととなります。

 

辞書によれば、『運命』とは「”本人の意志を超えて”人間に幸福や不幸を与える力や巡り合せのこと」と定義されております。

”本人の労力が伴う出会い方”というのは裏を返せば、”本人の意識下の元で行う自主的かつ積極的な出会い方”ということになります。

それらを踏まえた上で考えてみれば、”本人の労力が伴った上”となるマッチングアプリでの出会いは少々『運命的』とは呼び難いのではないでしょうか。

 

…とここまで私は「学校や職場、マッチングアプリでの出会いは『運命的』ではない」ということを説明いたしましたが、結局どのような出会い方が『運命的』と呼べるのでしょうか。

実を言うと、ここまで読んでいただいた中に既にその答えは隠されています。

要は、最終的に上記2点に当てはまらない出会い方ならば『運命的』と呼べるのです。

 

ここでおさらいをさせていただきますが、”上記2点”というのは「70億分の1での出会い」「本人の労力が伴う出会い」のことを指します。

その理由としては『「70億分の1での出会い」はこの世に生きる限り必然的に起こるため』、『「本人の労力が伴う出会い」はそこに本人の意思が働くため』と説明させていただきました。

 

しかし逆を返せば、上記2点に当てはまらなければ『運命的』と呼べるのではないでしょうか。

つまるところ、「70億分の1よりも確率の低い出会い」であって「本人の労力が伴わない出会い」であれば『運命的』と呼べるということです。

 

ただ、やはり『運命的』と揶揄されるだけあって、この2つのパターンを両立させるというのは至極難しいことだと思います。

 

例えば、従来の出会い方であった結婚相談所や婚活、出会い系サイト主催のパーティーやお見合いなどでの出会いは、マッチングアプリと同様に出会いが必然化され、かつ本人の労力が伴った出会い方であるため『運命的』とは到底呼べません。

また、昨今のSNSやインターネットなどの普及による出会い方においても、あくまで単なる70億分の1の出会いにしか過ぎず、そこに本人の労力及び意思が伴うため『運命的』とは呼べなくなります。

さらに、紹介などといった友人や知人を用いた出会い方は、そこに本人の労力及び意思こそ伴わない出会い方ではありますが、その他の出会いと同様にあくまで”ブラックボックス”上での話でしかなく、やはり70億分の1の域を越えないため『運命的』とは呼べなくなってしまいます。

 

このように世の中に溢れている出会い方において、上記2つを両立させた上で『運命的』と呼ばれる出会い方はほぼありません。

もちろん、仮に「本人の意志を伴わない出会い」だけということであれば、上記の例のように学校や職場、知人や友人の繋がりなどによってかなり多くの機会に恵まれるため、高確率で実現は可能だと思います。

しかし、もう一方の「70億分の1よりも確率の低い出会い」というのは、特に極めて稀なケースであり、そうした出会い方を確立するのは非常に困難なことだとも思います。

 

そもそも上記の説明の通り、人類須く人と出会う確率が70億分の1である以上、学校や職場、知人や友人の紹介によって出会う”だけ”であれば、あくまで人類全ての人が持つ”70億分の1”を引き当てたにしか過ぎません。

率直に言ってしまえば、そういった出会い方は『ありきたりで平凡な出会い』に成り下がってしまうのです。

ただ、この理論を逆に考えてみれば、その出会い方が”出会うだけ”もとい『平凡な出会い』でなければ、70億分の1の確率を超えるということになるのではないでしょうか。

 

皆さんも小中学生の時に「サイコロを2回降る時、1回目が偶数、2回目が奇数の確率はいくつか」というような確率の勉強をしたことが一度はあるかと思います。

こうした問題を解く際には”ある事象”と”ある事象”の掛け算をしたのを覚えていますでしょうか。

上記のサイコロの問題で言えば、偶数が出る確率は1/2、奇数が出る確率も1/2、そうして出た確率同士を掛け合わせて1/2×1/2=1/4という確率が出れば正解という解き方です。

こうした確率の問題は今回の議題にも応用できます。

 

何度も言う通り、人が人と出会う確率は須く70億分の1の確率です。

ただし、この確率はあくまで”出会うだけ”のものにしか過ぎません。

簡単に言えば、AさんとBさんが巡り逢うだけの確率でしかなく、”どのように出会うか”というプロセスまでは考慮されていないのです。

つまり、本来の”出会いの確率”というのは『”出会う”という事象そのもの』と『その事象が起きる”プロセス”』の2つで構成され、それらを掛け合わせることで確率を導き出すことが出来るのです。

 

例えば、先ほど一蹴した学校や職場、友人や知人による出会い。

これらは私達が普段意識せずに人とすれ違い、挨拶を交わす中で生まれた出会いだと思います。

しかし、”私達が普段から行えている”ということから考えてみれば、私達がその出会いに対して特別何かをした訳ではないことは明白であります。

それを踏まえた上で再び思考を凝らしてみれば、そもそもその出会いには”プロセス”自体が含まれていないに等しく、確率として特別計算すべきものではないことが分かります。

仮に強いて確率を挙げるならば、”その場にいる”という前提が必要であり、”その場”自体が”ブラックボックス”であることを考慮すると、この世に生を受けているだけでそうした前提が果たされていると結論が出るため、この世にいる自分自身という確率、即ち、1/1という確率が導き出されます。

そうして出会いの確率の計算をすれば、1/70億×1/1=1/70億という確率が導き出され、70億分の1を超える出会いではないことが証明されます。

 

このように「人が出会う確率=1/70億」×「出会うためのプロセスに対する確率=x」=”出会う確率”という公式で求めることが出来ることが分かっていただけたと思います。

そうした公式を踏まえて逆を返せば、「出会うためのプロセスに対する確率」=【1/1>x】でさえあれば、即ち、出会うために何かしらの”プロセス”を踏んでさえいれば『70億分の1よりも確率の低い出会い』を導き出すことが出来るのです。

 

例えば、漫画やアニメなどでよく見る「本屋で手と手が触れ合う」というシチュエーション。

これが「本屋ですれ違い一目ぼれした」…などであれば、やはり70億分の1の確率の域を出ませんが、上記のシチュエーションの場合は『手が触れ合う』という”プロセス”を一旦挟んでいます。

『人と手が触れ合う』確率は確実に1/1よりも低い確率になるので70億分の1を超します。

されに言えば、上記のシチュエーションはあくまで偶発的に起きたことでありますから、『本人の意思を伴わない出会い』という項目も間違いなくクリアしています。

つまり、上記のシチュエーション下においては『70億分の1よりも確率の低い出会い』かつ『本人の意思を伴わない出会い』であるため、”運命的な出会い”とすることが出来るのです。

 

このように、『何かしらの”プロセス”を挟んだ上で出会う』というシチュエーションは他にもいくつか存在します。

「痴漢や嫌がらせから守ってくれた」「落とした荷物を拾ってくれた」…などです。

それぞれ何かしらの形でワンクッション=”プロセス”を挟んで本人の意思を伴わない出会いを構成しており、そのプロセスは上記と同様に『1/1>x』であることは間違いありません。

そのため、それぞれ『70億分の1よりも確率の低い出会い』かつ『本人の意思を伴わない出会い』をクリアした”運命的な出会い”とすることが出来るのです。

 

ただし、ここで勘違いして欲しくないのは、上記はあくまで『出会いに直結しなければならない』という前提があった上での話であることです。

 

例えば、「街角でぶつかった上、後に学校や職場で出会う」というよくあるシチュエーション。

確かに『街角でぶつかる』という確率は『1/1>x』であることに間違いはありませんから、そこで出会いが発展していれば”運命的な出会い”と言えたでしょう。

しかし考えてみれば、『街角でぶつかった』という事象と『後に学校や職場で出会う』という事象はそれぞれ別々の事象であって、あくまで”出会うためのプロセス”ではありません。

つまり、『街角でぶつかった』”から”『後に学校や職場で出会った』のではなく、『街角でぶつかった』”かつ”『後に学校や職場で出会った』のであって、最終的な出会いには直結していないのです。

そのため、『街角でぶつかった』という事象は実質的にはノーカウントになり、『後に学校や職場で出会った』という事象だけが”出会いのプロセス”として有効的な確率となります。

『学校や職場で出会う』という事象は上記で何度も言った通り、『70億分の1よりも確率の低い出会い』には該当しませんから、当然”運命的な出会い”と呼べなくなってしまうのです。

 

さて、ここまで長くなってしまいましたが、上記の話をまとめると以下の通りになります。

”運命的な出会い”=『何かしらの”プロセス”を挟んだ本人の意思が伴わない出会い』

 

こうしてまとめてみると、”運命的な出会い”と呼ぶ割には案外「ない」とも言い切れない微妙なラインであることが分かり、少し希望を見出すことが出来た気がします。

ただ、”運命的な出会い”が『何かしらの”プロセス”を挟まないといけない』以上、そもそも”プロセス”を獲得する機会が必要があって、そうした機会に恵まれるためには外に出る必要があります。

つまり、『”運命的な出会い”が欲しければ外に出ろ!』ということです。

そうして考えると、普段あまり外に出ない私には”運命的な出会い”は無縁なのかもしれません。

…残念です。

 

…と言うことで、”運命的な出会い”を求める方は、是非手当たり次第に外に出てみてください!

もしかしたら、追い求めている”運命的な出会い”の糸口が掴めるかもしれませんよ?


さて、今回はここで終わらせていただきます。

今後もこういった趣味のお話や私の独り言をブログに記していきますので、気に入っていただけたら再び足を運んでくれたら嬉しいです。

それでは、皆さんまたお会いしましょう。

さようならー。

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