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『青春』とは”探求心”と”蛇足”の賜物である。

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皆さん、おはこんばんにちは。

雨宿時雨と申します。

 

さて突然ですが、皆は『青春』と言われて何を想像するでしょうか。

多くの人は部活や恋愛に精を出し、友人との他愛のない一時に花が咲いた中学や高校といった学生時代を思い出すのではないでしょうか。

確かに、子どもの頃に綺羅びやかなものに見えていた大人の世界へいざ足を踏み入れてみると、平凡だったはずの学生時代の方がキラキラと輝かしいものに見えてくるものです。

だからこそ、大人になってしまった私たちは「『青春』は学生時代の特権であった」と諦め混じりの考え方をしてしまいます。

しかして、私は『青春』とは偏に”探究心”の賜物なのではないかと考えます。

 

そもそも『青春』とは何でしょうか。

辞書でその意味を引けば『若く、人生の春にたとえられる時期』とされていますが、私からすれば酷く早計なものだと思います。

 

『青春』という字は読んで字の如く“青い春”と書きますが、お分かりの通り、ここで言う『青』は何も色を示す言葉ではなく、言葉遊び的意味合いを持つ言葉です。

生まれたばかりの赤ちゃんのお尻には「蒙古斑」と呼ばれる青あざが出来るのは、育児経験のある方なら誰でも知っている話でしょう。

そうした事柄から転じて、『青』は赤子のように“経験が浅い””未熟”という意味合いを持つようになったわけですが、これに留まらず『青』に対する曲解は更に進むことになります。

と言うのも、“経験が浅い””未熟”と言えば、必然的に「若者たち」がその意味に匹敵するものであることから、いつしか『青』は若者」を指し示す言葉として根付いていったのです。

 

そういった意味であることを聞けば、現代社会における『青春』に対する意味合いは何ら間違いではないとも言えますが、個人的には『青春』を『春のような若き時代』と捉えるより、『春浅き頃』と捉えた方がより自然であると考えます。

 

先の説明の通り、『若者』と訳されるようになった『青』には”経験が浅い””未熟”といった元の意味が含まれることになります。

そうした意のままに『青春』を直訳すれば『未熟な春』となるわけですが、想像力を膨らませなければその意味は何とも解読し難いものでしょうから、更にもう少し意訳を進めようと思います。

 

“未熟”という言葉は、元来「果実などが熟していない」「食べ頃でない」ことを指す言葉です。

とは言え、「食べ頃でない」というのはあくまで果実などの食べ物に対する言葉であって、季節や場所に使う言葉としては不適切な表現ですから、より適切な言葉で伝えさせていただくと『見頃でない』とすると意味が通りやすくなるでしょう。

 

またまた突然ですが、皆さんは『春』と言えば何を想像するでしょうか。

『春眠暁を覚えず』という言葉の通り、うたた寝したくなる程の心地よい暖かさが身を包み、桜や菜の花、タンポポなどの花々が綺麗に咲き誇る…などという季節と想像するのではないでしょうか。

そうした想像は、言い換えれば『春に対する理想像』、もっと言えば『春の見頃』と言えます。

 

先程、ここでの”未熟”の意訳は『見頃でない』としましたが、それを踏まえて『青春』の意訳である『未熟な春』を更に意訳するならば『見頃でない春』となるでしょう。

そして、『見頃でない春』というのは当然『春の見頃』の逆の意味であることを考えると、冬越しして尚も寒さの名残りがあり、未だ蕾のまま花々が咲く様子もない時期とすることができます。

つまり、『見頃ではない春』=『青春』というのは、春になって日が浅く、未だ見頃を迎えぬまま日の目を見ない『冬から春への季節の変わり目のような時期』を指す言葉と解釈することが出来るのです。

 

人生においても、そうした時期というのは存在することでしょう。

『人生とは何か』『どの道に進めば良いのか』『どのようにすれば良いのか』…などと考え、たった一筋の光を追い求めて藻掻き苦しみ、時に一生暗闇に閉じ込められたままなのではないかと不安に陥ることすらある…。

そうした人生における所謂“探究心”とも取れる情熱こそ、正しく『日の目を見ない季節の変わり目』と意訳される『青春』という言葉に当てはまるのではないでしょうか。

 

確かに、そうした”探究心”は若者に多く見られるものではありますが、だからといって何も若者ばかりが”探究心”を持って生活しているわけではなく、大人であっても”探究心”を持ち続ける者も少なからず存在します。

特に現代では、ネット環境が整ったことで誰でも気軽に己の技量を向上させられる、かつ、他者に証明出来るようになったため、”探究心”を持つ大人は以前と比べると格段に増えたと思います。

 

もちろん、現代における『青春』の意訳で以て学生時代の輝きと比べれば、それは必死にその輝きを追い掛けているような虚しさが募ることでしょう。

しかし、そうした『必死』であることこそが正しく『”探究心”のそれ』なのであって、『日の目を見ない季節の変わり目』と意訳される『青春』を今まさに送っていると言えます。

 

さて、随分と話は変わりますが、先日私は『花咲くいろは home sweet home』というアニメ映画を鑑賞しておりました。

『花咲くいろは』と言えば、当ブログでも以前から紹介する程に私が惚れ込んでいる作品でありますが、本作品は主人公・緒花の母・松前皐月の過去に踏み込みながら進行する、アニメ本編の番外編として作成された劇場版作品です。

アニメ本編同様に恋や仕事、家族や人間関係に苦悩や葛藤を抱く登場人物たちの姿は、正しく青春群像劇にあるべき姿そのものだったと思います。

 

しかして、アニメ本編の評価が高かった上での劇場版作品ということもあり、本作品にはアニメ本編のアフターストーリーを望む者、期待する者も少なくはありませんでした。

それ故に、アニメ本編の番外編となった本作品に憤りを感じて酷評する者も多く、中には本作品を『蛇足』と切り捨てる者も存在したくらいでした。

 

ただ、私から言わせてみれば、青春群像劇である本作品が『蛇足』であることは何ら問題ではなく、むしろ正当なものであると言えます。

と言うのも、『青春』とは若さ故にあるのではなく、”探究心”がある故に『青春』であることは先の通りではありますが、そもそも”探究心”なぞ無くとも本来生活に支障はないものなのです。

 

『青春』が学生時代の代名詞となったのは前述した「言葉としての意味合い」も大きいですが、やはり”探究心”が若者を中心に多く見られることもまた一役買っていることでしょう。

それは逆を返せば、学生時代を過ぎ去った所謂「大人」に『青春』の文字を使わないのは、若者と比べて”探究心”を持つ者が圧倒的に少ないからだと言えます。

確かに考えてみれば、日々自分に課された行うべき仕事をただ漫然と熟すだけの大人にとって、”探究心”を持つこと自体が縁遠い生活となっています。

そうしたことを踏まえても、”探究心”などというものは無くとも生活に支障はないと言えるでしょう。

つまり、「人生の豊かさ」などという点を差置けば、「『青春』たる所以である”探究心”を持つことは生活をすることにおいて特別必要のないもの」と言えるのです。

言い換えてしまえば、即ち「”探究心”を司る『青春』というもの自体が人生を生きる上での『蛇足』的要素である」ということです。

 

こうして考えてみれば、青春群像劇である本作品が『蛇足』であることは、本作品が体現すべきポイントを抑えた秀でた作品であったことを示す一つの指標であったと言えましょう。

だからこそ、『蛇足』であることは本作品にとって正当性あるものなのです。

 

さて最後になりますが、総括として一言だけ言わせていただきたいと思います。

現代では『青春』は学生時代や若さの代名詞として使われていますが、本ブログで語らせていただいた通り、人生における様々な道を自ら切り開こうと努力する”探究心”さえあれば、人はいつでも『青春』を謳歌することができると思います。

大人になった今になって考えてみれば、確かにそうした”探究心”という名の情熱はあっても無駄な『蛇足』かもしれませんが、「人生は死ぬまでの暇つぶし」という言葉がある通り、正直人生は須く『蛇足』の連続であるとも言えます。

であれば、学生時代の『青春』を懐かしみ羨むくらいならば、何か熱中できる、即ち”探究心”を持てるものを見つけ、『蛇足』を楽しむ方が良いのではないでしょうか。

大人になった今だからこそ、『青春』を謳歌するもの1つの生き方だと私は思います。

 

それでは。


さて、今回はここで終わらせていただきます。

今後もこういった趣味のお話や私の独り言をブログに記していきますので、気に入っていただけたら再び足を運んでくれたら嬉しいです。

それでは、皆さんまたお会いしましょう。

さようならー。

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