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松本人志がラジオで語った原爆投下の話について思ったこと

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皆さん、おはこんばんにちは。

雨宿時雨と申します。

 

さて、本日の日付は2021年8月15日。

今から76年前の1945年、太平洋戦争中だった日本はポツダム宣言を受諾し、降伏を受け入れました。

そして今日は、そんな戦争の終息を祝った『終戦記念日』です。

 

ということで、今回は太平洋戦争の話をしていくわけですが……。

やはり『太平洋戦争』で思い出されるのは、アメリカが日本に落とした2発の原爆ですよね。

 

1発目は1945年8月6日に広島へ落とされ、その3日後の1945年8月9日に長崎へ2発目が落とされます。

規模は非常に甚大なもので、広島では約10万人、長崎では約7万人の方が被害に遭いました。

その被害の大きさから『非人道的行為』にあたるとされ、以降の戦争では未だ使われていません。

 

ここまで大きな被害を出した2発の原爆。

しかし、それを落とした張本人であるアメリカ側では「原爆を落としたことで戦争を早く終息させることができた。原爆を落としたのは英断だった」と、今でも英雄譚のように語られています。

これに対し、いつぞやのラジオ番組で、ダウンタウンの松本人志は「あそこまでの被害を出しておいて、なぜ謝罪の1つもなく開き直れるのか。それが日本人として悔しい」と、涙ながらに熱く語っていました。

 

確かに、甚大な被害をもたらした原爆投下は、日本人にとって許しがたい話ではあると思います。

ただし、それはあくまで”日本人として”の話です。

 

以前、私は以下のような記事を書いたことがあります。

悪役とは何か
皆さん、おはこんばにちは。 雨宿時雨と申します。 さて、今回で第14回目となる時雨ブログ。 今回のお題は『悪役』についてです。 先日、緑黄色社会さんの「Mela!」という曲のMVを見ました。 M...

ここでは、童話の話をベースに「『悪役』とは主人公側から見た単なる偶像ではないか」というお話をさせていただいています。

 

私は「松本人志の意見は正しくこの記事のいい例ではないか」と思います。

 

世の中には、世界大戦のような大規模な戦争、国内のみのような小規模な紛争、地域の子ども同士の喧嘩……などなど、様々な争いごとがあります。

そんな数ある争いごとですが、全てにおいて必ずある共通点が存在します。

それが『”人の感情”から争いが起きる』ということです。

 

確かに人間は、欲求を抑える”理性”や交渉する術である”言葉”を持ち合わせています。

しかし、人間は理性や言葉だけで解決できるほどの感情だけを抱くものではありません。

時に人や物を独占したがり、時に人や物を甚振りたがり、時に世の理に反したくなる。

それが人間という生き物なのです。

 

そして、その感情が誰かに向いた時、それに黙って従う人間など誰一人としていないでしょう。

だから、そこで意見が衝突して争いごとが起きるわけです。

 

これが争いごとの基本原理です。

ただ、この原理が通用するのは、精々そこら中で散見される喧嘩くらいでしょう。

 

もちろん元を辿れば、事の発端は基本原理に則りますが、世の中はそこまで単純ではありません。

誰かの感情が誰かの感情を揺さぶり、さらにまた誰かの感情を揺さぶる……。

このように感情の連鎖反応が起きることで争いに発展することもあるのです。

 

つまり、『世の中で行われている戦争や紛争は、純粋に「人・もの・金・土地・名声を得たい」などという”個人の私利私欲”のために行われているものばかりではない』、ということです。

 

当然、先も言いましたが、元を辿って最終的に行きつく先は、そういった”個人の私利私欲”です。

しかし、その感情が社会情勢を揺るがし、一見関係のないと思われる場所までもつれ込んだ結果、戦争や紛争に発展することもあるのです。

 

事実、『太平洋戦争』へ発展した理由は、日本がアメリカからの輸出に頼っていた石油を止められ、無理難題な公約をアメリカ側から押し付けられた結果、その公約を飲めなかった日本側がやむを得ず、物資調達などを目的にアメリカ軍基地のある真珠湾に奇襲をかけたことがきっかけです。

これだけ聞くとアメリカが一方的に悪いような気がしますが、何も意地悪で石油の輸出を止めたわけではなく、もちろん日本側にも原因があったからこそです。

その原因というのが、日本の東南アジアへの進出です。

 

日本は資源がとても少ない国ですから、石油などの資源は他国からの輸入で賄っていました。

しかし、やはりそれだけでは事足りなくなります。

そこで考えたのが東南アジア諸国に進出して、そこから資源を集めることです。

そして見事、日本は満洲国などを制圧し、植民地化することができたわけですが……。

 

これでアメリカの機嫌を大きく損ねるのです。

なぜなら、東南アジアはアメリカの半植民地状態であったからです。

要は、アメリカが手を掛けようと片手を伸ばしていたところに、日本が横から割って入って掻っ攫っていってしまった、というわけです。

ここまで聞くと、日本がアメリカに喧嘩を売った、と言っても過言ではないような気がしますね。

ただ、日本としても資源がなく、どうしようもなかった状態であったことを考えると、実際は誰のものでもなかったわけですから、致し方なかったとも言えます。

 

つまり、太平洋戦争が起こったのは完全に「痴情のもつれ」であり、双方ともそれなりの言い分があることが分かります。

 

さて、少し話は長くなりましたが、このように戦争や紛争などの争いごとは、どちらが一方的に悪いなどという単純な話ではなく、双方の思いが様々な事柄によって触発されることで起こる複雑なものである、ということが分かりました。

では、今回の本題である『原爆投下』についてはどうでしょうか。

 

ある話では、原爆投下当時、アメリカ側は以下のような状況に置かれていたと言います。

 

戦況が確実に不利な状況になった日本。

それでも降伏しない日本は、なんと「神風特攻隊」と言われる自爆攻撃、民間人の集団自殺を繰り返し始めたのです。

すると、確かに戦力的には圧倒的に有利な状況であったアメリカ軍が、このような「相手に殺されるくらいなら自害した方が良い」という日本人の考えによって、精神的疲弊へと追いやられ、一時に足が止まってしまう事態に陥りました。

 

そうして精神的余裕のなくなったアメリカ軍ですが、さらに状況が緊迫します。

以前よりその気があったソ連軍が、ここに来て日本へ進出しようと言い出したのです。

ここでソ連軍が日本へ進出すれば、必ずソ連軍と対立しなければならない状況になります。

しかし、アメリカ軍としては、「日本から手を引いて負けを認めた上、日本をソ連軍にとられる状況」も、「このまま戦い続けてソ連と一騎打ちになる状況」も、どちらも分が悪い話。

 

そのため、いくら精神的疲弊があったとしても戦争を続け、ソ連軍が進出してくる前に日本に降伏させることで、アメリカの領地にしなければならない状態だったのです。

 

しかして、ここで問題になってくるのは、いくら戦況の悪い中であっても降伏しない、降伏するなら自害を選ぶ、そんな意地の悪い粘り方をする日本に、如何にして降伏させるかということです。

 

そんなことで頭を抱える中、アメリカでは「原爆が完成した」という話が持ち上がります。

原爆と言えば、当時、各国が我先にと完成を急いでいたもので、もちろん、アメリカも急ピッチで取り掛かっていた案件でした。

そんな誰もが羨むものを、ここにきてついにアメリカが完成させたと言うのです。

しかし、実際に使用した実験データがなければ、武器として使用できるものなのかも分かりません。

そこで考え付いたのが、日本へ原爆投下なわけです。

アメリカは「原爆を投下すれば日本を早く降伏させ、なおかつ、他国にも威圧を与えることができる」と踏んだのです。

 

つまり、アメリカとしては他国との情勢などを考慮した上で、ちょっとやそっとのことでなかなか降伏しない日本に対し、最も絶大な脅威を与えることで降伏を促したわけです。

 

 

当然、道徳的に使っていいのか、という問題はあります。

しかし、これは戦争であり、アメリカ側も人命、引いては、国命を背負っています。

ここで日本が降伏しないからと言って、諦めて引き下がれば、それは国を潰すことになる。

かといって、このままずるずる日本と戦ってソ連と戦争することになれば、下手すればボロ負けしてしまうことにもなりかねない。

それを考えれば、「ここで原爆を投下して、さっさと日本に勝つ」という方法以外はなかったと言えます。

 

また、原爆投下は戦争上のルール違反・条約違反ではないか、という問題もあるかと思います。

確かに、戦争にもルールが存在します。

「民間人の安全を確保する」「非人道的行為は行わない」……などが挙がりますね。

これらのルールを定めている条約や協定はいくつか存在しますが、この手の話で主に注目されるのは『バーグ陸戦条約』『ジュネーブ条約』というのものです。

しかし、ここで問題になってくるのは、制定年月日とその内容です。

『バーグ陸戦条約』の制定年月日は1899年で、太平洋戦争以前から存在しており、当時も有効なものとされていますが、その内容として、原爆投下は禁止事項として認められていません。

一方で、民間人保護の目的で制定された『ジュネーブ条約』では、原爆投下は禁止事項として認められる内容になっていますが、肝心の制定年月日が1949年と、太平洋戦争以降の制定であり、当時では有効な条約ではありませんでした。

ここから分かる通り、当時の原爆投下はルール違反でも条約違反でもなく、公式的に認められたものであることが見て取れます。

 

つまり、アメリカが行った行為は道徳的にアウトなものであっても、理屈的に見れば、日本との戦争を早く終わらせる手段としては最適解であったと言えます。

 

確かに、その最適解は、結果的に多くの人を苦しめた非人道的行為であったかもしれません。

しかし、先も言いましたがこれは戦争です。

戦争とは、敵に100%の気遣いをできるほど、そんな生易しいものではありません。

気遣い・優しさ、そういったものを振り撒いているうちに、背後から敵がやってきて、自分が傷を負うことになってしまうような、そんな厳しいものです。

だから、戦況に応じた戦術を常に構築し続け、時に非道な手を使ってでも勝ち上がろうとしなければならないものなのです。

 

 

さて、どうでしょう。

こうしてアメリカ側の理屈を考えてみると、日本側から見れば悲しく悔しい思い出でも、アメリカ側から見れば決死の決断、後の英断と言えるのではないでしょうか。

 

松本人志の意見は日本を主人公として見ているから、それを攻撃したアメリカが敵であり、悪者であるかのように映りますが、それは逆を返せば、アメリカにとってはここまでしなければならない状況に追い込んだ日本が敵であり、悪者であるかのように映るわけです。

要は、この戦争において真の悪役はおらず、どちらが悪いという話ではない、ということです。

だから、松本人志は『アメリカは間違いを犯した悪者である』というように言いますが、日本人・アメリカ人という主観や人間としての感情を抜きにして考えれば、私は戦争である故、当時の状況的にもそれは致し方のない行為だったのではないかと思うのです。

 

話は少し逸れますが、最後にこの世の心理をお教えします。

この世は「勝った方が正義」「お金が全て」です。

元も子もない話になりますが、残念ながらアメリカはどちらも日本より勝っています。

例え原爆投下が罪に当たるとしても、戦争の勝者であり、大金持ちであるアメリカが罪に問われることはないでしょう。

さらには、歴史は勝者によって書き換えられます。

つまり、日本が負けた時点で、日本側が何を言っても”噓つきの負け犬の遠吠え”にしか過ぎないのです。

 

以上で終わりにしようと思います。

それでは。

 

-追伸-

炎上すさせるつもりで書いてはいませんが、「もしかしたら炎上しちゃうかも……」なんて思いながら、私の本音を書かせていただきました。

この記事を見て不快になられた方がいましたら申し訳ございません。

ただ、これはあくまで私の独断と偏見ですので、あまりお気になさらないでくださいね。


さて、今回はここで終わらせていただきます。

今後もこういった趣味のお話や私の独り言をブログに記していきますので、気に入っていただけたら再び足を運んでくれたら嬉しいです。

それでは、皆さんまたお会いしましょう。

さようならー。

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