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悪役とは何か

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皆さん、おはこんばにちは。

雨宿時雨と申します。

 

さて、今回で第14回目となる時雨ブログ。

今回のお題は『悪役』についてです。

 

先日、緑黄色社会さんの「Mela!」という曲のMVを見ました。

MVの内容としては、いろいろな童話の中で悪役として扱われるオオカミが、童話の中の主人公たちに馬鹿にされながらも、自分や誰かを幸せにしていこうとするといった内容になっており、実に曲の内容にマッチしたものとなっています。

 

そんなMVを見ていると、ふと、頭に疑問がよぎりました。

 

確かに「三匹のこぶた」や「赤ずきん」の主人公であるこぶたや赤ずきんから見てみれば、オオカミという存在は、せっかく作った家を壊され自分を食べようとしたり、自分や大好きなおばあちゃんを食べたりなど、自分を最悪の方向へ導いた『悪役』であると言えます。

物語としても、主人公側よりで話が書かれていますから、主人公だけではなく、読み手側から見ても、オオカミという存在は、残忍で冷酷で非道な『悪役』であると言えます。

 

それは、今回MVに出てきた話に限ったことではありません。

他の童話や物語の中にも、オオカミだけではなく様々な『悪役』が登場します。

プリンセス系の物語で言えば、「シンデレラ」の母親や姉、「白雪姫」の女王、「人魚姫」の魔女などが上がってくるかと思います。

そして最も有名なのはディズニー作品のヴィランズだと思います。

他にもまだまだありますが、どの作品でも主人公あるいは読み手から見ると、出てくるどの『悪役』も皆、残忍で冷酷で非道な『悪役』であると言えます。

 

しかして本当に『悪役』とは『悪役』なのでしょうか。

 

例えば、MVの中にも出てきた「三匹のこぶた」や「赤ずきん」の話。

オオカミがこぶたや赤ずきんを食べようと襲ったのは、オオカミのお腹が減っていたからです。

それは、果たして『悪』なのでしょうか。

私たちを含め、物語の中の主人公であるこぶたや赤ずきん、そして悪役であるオオカミにとって、食事とは生きていくために必要不可欠な行為です。

その食事を摂るために、人間などの生物は何ら躊躇なく他の生物を殺して生きています。

それは物語中のこぶたや赤ずきんだってそうです。

こぶたは天敵であるオオカミを殺して食べはしないでしょうが、その代わりに植物などを食べていることでしょう。

赤ずきんはれっきとした人間ですから、私たちと同じように、豚や鳥や牛、魚、植物など様々な生き物を殺して食べていることでしょう。

これは自然の摂理なわけですから、抗いようのない事実です。

そんな抗いようのない自然の摂理をオオカミが行った途端に、『オオカミは悪役』というレッテルを張り付けられるのはおかしな話ではないでしょうか。

こぶたや赤ずきんが普段行っている行為もオオカミと同じ行為であるのに、なぜオオカミだけが『悪役』となってしまうのでしょうか。

 

他の物語も同じです。

 

「人魚姫」のお話では、「上半身は人間、下半身は魚という普通の人間とは違う人魚であるために、意中の王子に合うことができない」、魔女はそんな人魚の足を人魚の美声と引き換えに、人間の足に変えてあげます。

人魚は王子に近づくことはできましたが、声と引き換えにしたことで思うように想いを伝えることができず、最終的には泡となって死んでしまいます。

ここで、問題なのは「魔女が声と引き換えにしたから、人魚は想いも伝えることができず死んでしまった。」ということですが、逆を言えば、魔女が足をつけてあげなかったら、王子に近づくことすらできません。

人魚はそれが嫌だったから、わざわざ魔女に頼み込み、声を失うことすらも躊躇うことなく、自ら交換条件を飲んだわけです。

別に人魚はそれを強要されて行ったわけではなく、それでもいいからと自らが望んで選んだ行為なわけです。

また、自らの下半身を人間の足にしてもらって、普通に王子と仲良くなり、結婚しておいて、何のペナルティーもないというのは、虫が良すぎる話ではないでしょうか。

通常、何かしらの物を得るためには、それ相応の対価が支払われるものです。

私たち人間社会では、お金がその対価として匹敵しますね。

人魚だって、王子に近づくという、普通だったら無理難題なお願いを叶えるためには、それ相応の対価、話の中であれば声ですが、そういったものが必要となるのは普通なのではないでしょうか。

それを求めることで魔女が『悪役』となるのであれば、私たち人間社会の売人は皆『悪役』となってしまいます。

 

このように、『悪役』と言われる者たちは、よく考えてみれば当たり前のことをしているだけなのに、『悪役』だと言われてしまうのです。

 

しかし、主人公はそんな当たり前のことをしただけの『悪役』に対し、『悪役』だと切り捨て、いとも容易く仕返しをします。

そして、それを見た読み手は主人公に対し『悪役』という意識はなく、むしろ主人公を応援し、『悪役』を断罪します。

 

なぜ、こういったことが起きるのか、答えは簡単です。

 

被害者に同情するあまり、被害者が加害者に対して行ってきた行為を棚に上げ、加害者の気持ちなどを一方的に切り捨てて加害者ばかりを非難する、これは現実世界でもよくあることかと思います。

更に同情し、加害者を非難するばかりか、悪いことをした加害者を討つという正義を振りかざす者まで現れます。

それは、因果応報や自業自得という言葉の意味を、「悪いことをすると悪いことが返ってくる」というものから「悪いことをしたのだから、悪いことで返されるのは当たり前」という意味として捉え、更に曲解して「悪いことをしていたのだから、悪いことで返してもいい」という意味として捉えてしまう者が現れるからです。

そういった誤った捉え方をしたが故に、悪いことをした者を、因果応報、自業自得という大義名分で正義という名のもとに、悪いことで返す者が現れる、あるいは、それを肯定する者が現れるようになるのです。

 

物語に話を置き換えてみれば、主人公よりで書かれた物語であるが故に、主人公にとって悪いことを『悪役』にされると、読み手は主人公に同情心が芽生え、その働きかけが当たり前のことだったとしても『悪役』だと非難し、悪いことをしたのだから悪いことで返されるのは当たり前、と主人公が『悪役』へ仕返しをすることを望み、肯定する、というのが流れだと思います。

それが主人公ばかりが優遇され、『悪役』が蔑まれる由来です。

 

しかし、何度も言う通り、例えば前述した「三匹のこぶた」や「赤ずきん」のオオカミ、「人魚姫」の魔女は当たり前のことをしていただけです。

それを読み手は、主人公の気持ちしか見ず、『悪役』の気持ちを一切無視して、悪を討ちとることを望み、肯定しますが、それは主人公側によった酷く独善的で一方的な同情心であり、正義感であると思います。

そんな同情心や正義感は間違っており、『悪役』と言われる者たちに失礼極まりないと思います。

 

 

むしろ、そういった同情心や正義感を取り除けば、当たり前の行動をした者たちを、悪で討ち取った主人公たちの方が『悪役』と言えるかもしれません。

ただ、主人公たちもやられた事実があり、怒って仕返しをするというのも当たり前な感情のため、これまた『悪役』とは言えません。

 

最後のまとめになりますが、結局何が言いたかったかというと、物語において『悪役』とは絶対悪ではなく、むしろ、『悪役』なんて存在しないこともあるということです。

なので、物語上に『悪役』と呼ばれる者たちが出てきたら、本当にその者は『悪役』なのかどうか、どうして『悪役』と呼ばれるような行動をするのか、今一度考えてみるのも面白いかもしれませんよ?

是非、皆さんもやってみてください!


さて、今回はここで終わらせていただきます。

今後もこういった趣味のお話や私の独り言をブログに記していきますので、気に入っていただけたら再び足を運んでくれたら嬉しいです。

それでは、皆さんまたお会いしましょう。

さようならー。

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