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怪談や神話、物語から考える『死者蘇生』について

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皆さん、おはこんばんにちは。

雨宿時雨と申します。

 

さて、現在の日時は7月18日、7月も下旬に差し掛かろうとしていきます。

2021年の7月は去年とは打って変わって、すでに梅雨も明け、本格的な暑さとともに、非常に夏らしい青々とした空が広がっております。

毎年のことですが、夏が到来すると、やはりいろいろなことが連想されますね。

海や川、プールで泳いだり、スイカやメロン、かき氷を食べたりなど、比較的楽しいことが盛りだくさんある気がします。

しかし、そんな楽しさの中、特殊な例もあるもので、夜でも暑い夏になると涼を求めて、あることを見たり、聞いたりしたくなるものです。

そう『怪談話』です。

『怪談話』を聞くと違う意味でヒヤッとして、ある意味、夏には最適なものかと思います。

 

……と、そんな前置きはさておいて、

今回の時雨ブログは『怪談話』にまつわる話をしていこうと思います。

『怪談話』とは言っても、特段怖い話をするわけではないのでご安心ください。

 

皆さんは『リゾートバイト』という怪談話を聞いたことはありますか?

この話は、2ch(現在は5ch)のスレッド内で語られた、結構有名な話です。

内容としては、『海の近い旅館でバイトをすることになった男子大学生3人が、女将の不思議な行動を気がかりに思い、真相を突き止めようとしたところ、案の定、不可解なことに巻き込まれていく』、という体験談となっています。

詳細については、結構な長さのお話なので割愛させていただきますが、しっかりとした怖さがあり、ホラー特有の緊張感も味わえるため、最後まで読みたくなるほど引き込まれまる、非常に読み応えのある作品になっています。

気になる方は、本文を読んでみてください。

 

まあ、そんな感じで『リゾートバイト』の紹介を一通りしたところで、今回の本題に移っていきたいと思いますが、今回お話していきたいのは、この話の紹介でも、感想でもありません。

今回お話をしていきたい内容は『死者蘇生』についてです。

 

『いきなりなんでそうなるんだ』『怪談に関係ないではないか』とお叱りの声が聞こえてきそうですが、一応関係はありますので、ご安心してください。

ただ、詳しい話をする前に1つだけ注意点。

この話をするにあたって、怪談『リゾートバイト』の最終的なネタバレを余儀なくされます。

『まだ読んでないからネタバレされたくない』という方は、一度戻っていただき、読まれた後に当ブログをご覧ください。

『ネタバレしてもいいよ』という方は、このままどうぞごゆっくり見ていってください。

 

 

……さて、注意も終わったところで本題に入っていきます。

 

今回のお題『死者蘇生』と言うと、『亡くなった人を生き返らせること』を意味します。

通常的に考えれば『亡くなった人を生き返らせる』というのは、現在の医療では不可能であり、その事象そのものが有り得ないことだと言えます。

しかし、だからこそなのでしょうか。

人というのは、亡くなった人に対し『もう一度だけ逢いたい』『生き返ってほしい』と1度くらい思うものです。

それはその人を想う気持ち、すなわち愛が強ければ強いほど、そう思えてくるものなのです。

 

今回ご紹介した怪談『リゾートバイト』の結末も、その結果故のものでした。

 

男子大学生3人が見た、不思議な行動を繰り返す女将さんの姿。

この女将さんの行動こそが『死者蘇生』の儀式だったのです。

 

女将さん夫婦には以前に1人の息子がいましたが、息子は海で遭難して亡くなりました。

女将さんは一時期気を落としていたものの、周りの励ましもあり、何とか元気に旅館を切り盛りするまでに回復しました。

しかし、心のどこかで諦めきれなかった女将さんは、その土地のある伝承を知ります。

 

その伝承というのが、正しく『死者蘇生』の儀式、もっと言えば『亡子蘇生の儀』だったのです。

 

『亡子蘇生の儀』は至ってシンプルです。

好きな場所に子を呼ぶ部屋(堂)を作り、その部屋の至る所にお札を貼りつければ準備は完了。

その後は、毎日部屋の片隅に1日一食分のご飯を盛るだけです。

これを何日も繰り返すことで亡子が蘇るというのです。

 

しかし、当然ながら本当に亡子がそのままの姿で蘇るはずがありません。

蘇った亡子は、この世の者とは思えない姿をして蘇るのです。

ある一説によれば、全身は青紫色で、体は有り得ないほどに膨らみ、瞼は腫れ、そこから覗く目は白目を向いていて、黒目は左右別々の方向を向いていると言われています。

ただ、儀式を行っている時点で精神異常をきたしているため、儀式を行った者から見れば、そんな姿をしていても「子どもが蘇った」と思ってしまうようです。

 

そして、女将さんはこの伝承を聞いて実際に実行に移し始めるのですが、この儀式を行うにあたっての前提がありました。

それが、生前に子どもに「へその緒」を渡しておく、というものです。

この土地での「へその緒」は、「どんなことがあっても親子は繋がっていて、子は必ず親の元に帰ってくる」という意味を孕んでおり、子の安全を祈願するお守りとして子どもに持たせるようになっていたそうです。

しかし、女将さんは元々この土地の人間ではなかったため、生前の息子に「へその緒」を渡してはいなかったのです。

その結果、何とか子を蘇らすことができたものの、それは『亡子蘇生の儀』とは似て非なるものとなり、間違った方向へ進んでしまったのです。

 

……というのが、怪談『リゾートバイト』の結末です。

 

こういった『死者蘇生』のお話は数多く存在すると思います。

中でも、『古事記』にも書かれている日本神話「イザナギとイザナミ」の話は有名かと思われます。

 

妻であるイザナミを亡くしたイザナギは、その悲しみからイザナミを蘇らそうと、死者を司る場所・黄泉の国に出向きます。

しかし、当然ながらイザナミは黄泉の国から出ることはできません。

夫のイザナギが悲しむ姿を見たイザナミは、「黄泉の国の神と相談してみるので、その間、私の姿を見ないでください。」とイザナギと約束を交わしました。

そうしてイザナギは約束を守ろうとしますが、イザナミと黄泉の国の神との話し合いがあまりにも長いため、我慢できずに覗き見してしまいました。

すると、そこにいたのは、死者の姿をした恐ろしい形相のイザナミでした。

 

これが「イザナギとイザナミ」のお話の一説です。

 

どちらの話に共通して言えるのは「『死者蘇生』をしようとしても結局失敗する」という点です。

先ほども言った通り、『死者蘇生』のお話は数多く存在します。

しかしながら、どのお話も『リゾートバイト』や『イザナギとイザナミ』の話のように、大抵の場合は失敗して終わっています。

そこには暗に「人間は物のように単純な生き物ではなく、非常に難しいモノである」ことや「人間を再構築するのは至難の業である」ことが意味されているのかもしれません。

 

ただ私はそういった意味の他にも、別の意味が隠れているのではないかと思うのです。

当然、本当にこの世に存在するかも分からない話なので、勝手な憶測にはなりますが、私としては、『1度失ったものは2度と戻ることはない』ということなのではないか、そう思います。

 

四字熟語には「万物流転」という言葉があります。

意味としては『どんなものにも寿命があり、形あるものはいずれ崩れる』というものになります。

確かに、今の時代、壊れたものは修理に出せば治るかもしれません。

しかし、それは同じように見えて、中身は別のものであると言えます。

つまり、「覆水盆に返らず」ということわざがあるように、崩れたものは2度と同じように戻ることはないのです。

 

それは人間にも例外なく同じことが言えます。

個人によって遅い、早いの違いはあれど、人間にもいつかは必ず「死」という寿命が訪れます。

「死」が訪れれば、今の医療ではもう2度と元に戻ることはありません。

『死者蘇生』の技術があったとしても、物語上でさえ完璧に直すことができないのは、それがこの世の中の道理だからではないでしょうか。

 

確かに、「人の死」というのはとても辛く、悲しいことです。

しかして、この世の道理に逆らい、本来あるべき姿を壊してまで、『死者蘇生』を願うのは正しいことなのでしょうか。

 

『イザナギとイザナミ』の話をモチーフとしたアニメ映画『星を追う子ども』には、このような言葉があります。

 

「『死』は生きることの一部だ」

「死者を悼むのは正しいが、憐れみ続けるのは間違いだ」

「『喪失』を抱えてなお生きろ。それが人に与えられた呪いであり、祝福でもあるのだ」

 

これらの言葉を合わせて考えていくと、私は以下のようになると解釈しました。

 

『死』とは、生きていく中で避けることのできない、必要最低限欠かせない事象である。

それは当然、悲しい事象で、故人を悼む気持ちを持つのは正しいこと。

ただ、その『死』を「可哀そう」などと憐れむのは、『死』=生きることの必要条件である以上、生きることを否定することになるため、間違った行為である。

つまり、残された人間は、その『死』を悼みながらも乗り越え、生きなければならないのだ。

確かに、それは残された人間にとって呪いのように辛いことである。

しかし、故人の『死』を受け入れることで、その故人が生きることへの肯定に繋がる。

それは故人への敬意、ひいては感謝と同義なのだ。

 

このようなところではないでしょうか。

 

冒頭にもお伝えし通り、私たちは死者への思いが強ければ強いほどに、死者の蘇生を望みます。

しかして、それは本当に死者が望むことなのでしょうか。

もし仮に、アニメ映画『星を追う子ども』のように『死』=『生』と位置付けらるのだとすれば、『死者蘇生』を望む行為は、先の解釈通り、死者の『生』を否定することになります。

 

そもそも、人を想う、人を愛する、というのは一体何なのでしょうか。

私は少なくとも、そこには必ず、その人への敬意が含まれるのではないかと思います。

そして、ただ意識したことがないだけで、改めて考えてみれば、少し重い言い方かもしれませんが、その人の『生』への感謝が芽生えているのではないでしょうか。

 

であれば、『生』を否定することになる『死者蘇生』は、その人への敬意と感謝という感情とは裏腹な存在となり得ます。

 

当然、『死』=『生』という定義があってこその話にはなりますが、その実、死後の世界のことなんて生きている私たちには知りようがありませんから、どうにも判断がつきません。

ですが、私たちが『死者蘇生』を望んだところで、神様であるイザナギとイザナミですらも失敗しているのですから、そう簡単に成功できるはずもありません。

 

確かに、『想い人が亡くなる』という現実に直面し、辛く、苦しいのは重々分かります。

だから別に、「故人の前で強がれ」なんて言いませんし、我慢なんてする必要はありません。

辛く、悲しいなら泣いてもいいと思います。

むしろ、その感情こそがあなたの故人への想いで、故人をそれだけ尊敬し、感謝していたことを現わしているのですから。

 

だから、『死者蘇生』というこの世の道理から外れた、失敗する確率の高いやり方をするよりも、『死』を悼みながらも、それを乗り越えて生きる方が、故人のためになるのではないか、と私は思うのです。


さて、今回はここで終わらせていただきます。

今後もこういった趣味のお話や私の独り言をブログに記していきますので、気に入っていただけたら再び足を運んでくれたら嬉しいです。

それでは、皆さんまたお会いしましょう。

さようならー。

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