皆さん、おはこんばんにちは。
雨宿時雨と申します。
さて、今回の時雨ブログは『才能について』という話をしていきたいと思います。
正直、この話をするかどうか迷ったんですが、特に他に書くこともなかったので、今回は思っていることを少しだけお話できたらと思います。
そもそも、なぜ今回この話をするに至ったかなのですが、先日たまたま武井壮さんのYouTubeライブの切り抜き動画を発見して見てみたら、才能などのそういった内容で、才能については前々から思うことがあり、ちょうどいいと思ったので書くことにしました。
まあ、そんな経緯はともかく本題に入っていきたいと思いますが、まず最初に肝心の武井壮さんの動画の内容を掻い摘んで説明させていただきますと、事の発端はある一つのコメントが武井壮さんのライブに流れてきたことから始まります。
そのコメントには「武井壮さんは『自身には才能はなく、努力で得た結果だ』と言っていますが、そもそも、そういった努力ができる時点でそれこそが才能だと思う」といった内容が書き込まれていました。
しかし、武井壮さんはこれを真っ向から否定しにかかります。
簡単な内容としては「家が貧しく、親も親のような人ではなかったから、家事を片手間にこなしながら、その中でも勉強も部活も人一倍努力して勝ち取った力であり、その努力は苦しかったし、何なら今でも努力は苦しい。それでも、生きるためにはやらなければならない努力で、どれだけ苦しくても仕方なく努力をしていた。それを才能だなんて言わないでほしい。」というものでした。
最終的な結びとして「才能なんてものはない」というところにたどり着き、動画は閉じます。
こういうような動画になるわけですが、簡潔に結論から申し上げます。
私自身は『才能は必ず存在する』と思っています。
確かに、武井壮さんはたくさんの努力を積み上げてこられたのだと思います。
親がダメな人間でお金もないような劣悪な環境にいながらも、学生であった時代には、学生の本分である勉強に部活と文武両道頑張りながら、家に帰れば掃除や洗濯、炊事と家事全般をこなしていたわけです。
さらには、部活に関して言えば、ただこなすだけではなく、人一倍できるようになろうと努力を惜しまなかったわけですよね。
当然、その努力は誰に否定できるものではなく、むしろ、尊敬に値するものであると思います。
また、武井壮さんの持つ力は努力で得たものである、そう断言できるものだと思います。
しかして、そこに本当に『才能』はなかったのでしょうか。
その答えを導き出すには、そもそもとして『才能』とは一体何なのか、という定義づけをする必要があると思います。
おそらくですが、私が思っている『才能』と武井壮さんが思っている『才能』では、根本的な定義がずれていると考えられます。
多分、武井壮さんが思っている『才能』というのは、『そもそもの基礎能力値が高い人のこと』を指していると推測されます。
一方、私の思っている『才能』というのは、『その素質がある人のこと』だと思っています。
『基礎能力値が高い』=『素質がある』と思っている人もいると思いますが、この2つは絶対的に=ではない、と私自身は思っています。
その証拠に、この世の中には「単純に基礎能力値が高いだけで、そこからいくら努力しても伸び悩む人」もいますし、逆に「最初はいまいちだったけれど、磨いたら意外と伸び幅がすごい人」もいます。
つまり、「基礎能力値が高くても必ず天才的な能力を発揮するわけではない」、逆を返せば「基礎能力値が低くとも必ず天才的な能力を発揮しないわけではない」ということです。
このことから、私は『素質がある人』が『才能がある人』としているわけです。
しかし、実際『素質』があるかどうかは、先ほどの例の通り、やってみないことには分かりません。
不得意と思っていたことでも、努力をしてみることで意外とできるかもしれませんし、逆に、得意と思っていたことでも、努力をしてみると意外と凡人レベル止まりになるかもしれません。
要は、『才能』=『素質』は必ず『努力』をしないと芽吹かないのです。
分かりやすく例えるならば、『才能』=『素質』というのは、土に埋もれていて見えない『芽』であり、そこに毎日『水をあげる』という『努力』をしてみないことには、実際芽吹くかどうか分からない、ということです。
そこに『才能』=『素質』という『芽』が埋まっていれば、『水をあげる』という『努力』をすれば芽吹きますし、当然そこに埋まっていなければ、水をあげ続けても芽吹くことはないのです。
ただ、そこで厄介なのは、その『芽』が芽吹くスピードも個体差があることで、多く水をあげないと芽吹かなかったり、少なくても芽吹いたりすることがあるのです。
さらには、芽吹くスピードが違うということは、当然、その成長スピードも個体差があります。
『才能』がある人の中にも、格差が生まれるのはこのためなわけです。
だからこそ、本当に『努力』をしてみなことにはどうなるか分かりませんし、何なら『努力』をしてみてもどうなるか分からないのです。
さて、話は大きく脱線しましたが、武井壮さんに『才能』がなかったのかという話に戻しましょう。
先ほどの問いとして「武井壮さんには『才能』は本当になかったのか」というものでしたが、結論を言いましょう。
武井壮さんは「多くの『努力』をして勝ち取ったものだから『才能』ではない」とおっしゃっていますが、前述の過程から『才能』とは『努力』が必須なものであることが分かるので、「『努力』をしたから『才能ではない』」という結論には至らず、さらには、前述の過程からそもそも『才能』がなければ結果は出ないものであることも分かるので、結果を出せている武井壮さんは『才能を持っている』という結論を導き出すことができます。
要するに、武井壮さんは『才能』を持っている、これが答えだと思います。
確かに、自分が努力してきたことを『才能』の一言で片づけられるのは気持ちよくありません。
しかして、当然、誰もその努力をあざ笑ったり、否定したりなどしておらず、あくまでその『才能』は『努力』のもとに成り立っていることは、周知の事実で誰もが認めており、尊敬の眼差しで称賛を与えているのは確かです。
なので、もう少し『才能』というものを認めてもいいのではないかと、正直思ってしまいました。
他にも思うことはありますが、長くなりそうなので、今回はここら辺にしておきます。
なお、あくまで私個人の感想なのでそこまで怒らないでくださいね。
良かったら、皆さんの意見も聞かせてください!
それでは。
さて、今回はここで終わらせていただきます。
今後もこういった趣味のお話や私の独り言をブログに記していきますので、気に入っていただけたら再び足を運んでくれたら嬉しいです。
それでは、皆さんまたお会いしましょう。
さようならー。
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