• 時雨ブログ

ようこそ、雨宿りのひとときへ! ゆっくりしていってね!          

押水菜子と喜多郁代から考える「”主人公”にならない生き方」

ブログ

皆さん、おはこんばんにちは。

雨宿時雨と申します。

 

さて突然ですが、皆さんは”主人公”という立ち位置に憧れたことがあるでしょうか。

”主人公”とはアニメやドラマ、映画や小説、漫画、ゲーム…等々、物語を進める上ではなくてはならない存在ですが、それ故に主人公というポディションは様々な意味で煌びやかな立ち位置であり、そうした立場や生活に憧れを抱く者も少なくはないでしょう。

 

しかして、世の中には『人生の主役は自分自身』という言葉もあります。

確かに、人生において行動するもしないも自身に選択権が委ねられ、そうした選択を基に自分自身の人生が進んでいくことを考えれば、人生という自身の物語を進行させる主軸を決めている自分自身こそが所謂”主人公”とも言えます。

 

とは言え、それはあくまで主観的な見方をすればというだけであって、アニメやドラマ等々のように客観性のある第三者の目線からすれば、あまりにも現実味を帯び過ぎている自身の人生は”主人公”とは到底言い難いものであることは紛れもない事実です。

そうした事実があり、またそれを認めてるが故、私たちは”主人公”というポディションに憧れを抱かざるを得ません。

その憧れを以て個人がどうするかは三者三葉でしょうが、大抵は憧れを目標として努力するか、きっぱりと諦めるかの二択になるでしょう。

 

しかし、中には『”敢えて”主人公にはならない』という者も存在します。

それは先の二択における後者のような「なれないから」という諦め混じりのマイナス的方向の意味合いではなく、あくまで「自ら望んで」という自発的なプラス方向の意味合いとしてです。

人間誰しも多少の欲があるものと仮定するならば、そんな人間が存在すること自体が些かにわかには信じ難い話ではありますが、先の通りに三者三葉、十人十色と考えれば、そうした者がいても不思議ではないのでしょう。

 

ただ、私を含めて欲を持つ多くの人間にとってすれば、やはり『敢えて主人公にならない』という生き方はその理由を含めて中々想像しにくいでしょう。

簡単に言えば、要するに『1番を狙うのではなく、敢えて2番手、3番手、或いはそれ以降の順位を狙う』…ということなのでしょうが、そうにしたとしても、私の目からはその理由があまりにも不明瞭すぎると言わざるを得ないものがあります。

 

では、なぜ彼らはそうした私たちでは理解し難い理念を持っているのでしょうか。

そのヒントとして、ここで私は2名のアニメキャラクターを紹介させていただきたいと思います。

 

1人目は『押水菜子』というキャラクターです。

当人物はアニメ「花咲くいろは」の登場人物で、その性格は仕事はもちろん、家でも家事や弟妹の面倒を見るしっかり者であるものの、その実、人前では口ごもってしまうほど大人しく引っ込み思案な一面もあります。

そんな性格を治すべく彼女は旅館・喜翠荘で仲居としてバイトすることを決意したわけですが、物語も終盤、アニメ第22話で喜翠荘の女将・四十万翠の意向により喜翠荘が閉館になることとなりました。

閉館する理由として四十万翠は主人公・緒花に対し、「皆それぞれに夢や道がある。今では数多くの柵がある”喜翠荘”という私たち夫婦の夢にこれ以上付き合わせることはできない」と語っています。

しかし、その話を緒花から聞いた押水奈子はアニメ第25話でこのように発言します。

女将さんは自分で夢へ走ることができる人だからそういうことが言える。
自分の夢が持てない、自分で夢へ走ることはできないけれど、夢を持っている人に一生懸命付いていくことが夢になる人だっているのだ。

 

そうした彼女の言葉には私もハッとさせられました。

先ほど私は、仮定ではあるものの「人間誰しも多少の欲はある」と発言しました。

もちろん、押水菜子の言う「人の夢へ寄り添う夢」もまた欲であることを考えれば、私の仮定は強ち間違いではないとも言えますが、正直なことを言ってしまえば、この発言で意図したのはあくまで他者を媒介することのない『自分だけの夢』という意味合いでしか考えていませんでした。

そうして改めて考えてみた時、私はどうして『夢が持てない人』がいることを想定できなかったのだろうかという疑問が過ります。

 

そうした疑問符に終止符を打ってくれたのが彼女の言葉です。

つまるところ、私は彼女の言うところの四十万翠のような『自分で夢へ走ることができる人』なのです。

 

自身を驕り過ぎている…そう言われてしまえばそれまでなのしょうが、少なくとも当ブログやYouTubeなどの活動は誰に言われたでもなく自発的な意志の下に行っています。

押水菜子を引き合いに出せば、引っ込み思案な性格を変えるために仲居のバイトを始めたとする彼女は、あくまで強制的に人と関わらざるを得ない状況をバイトを媒介して作り出しているにしか過ぎません。

確かに、そうした結果が自ら変わろうと努力した過程で生まれたものであることを考慮すれば、彼女もまた「自らの足で歩むことができる人」とも捉えられます。

とは言え、少し辛辣な見方をすれば、わざわざバイトをしなくとも意識さえ心がけていれば、普段の学校生活内でもある程度性格を変えることくらいはできます。

要するに彼女が行っていることは、普段家で勉強しない子どもを塾に通わせることで強制的に勉強させているのと同じなのです。

そのように言い換えてしまえば、彼女に「自らの足で歩むことができる」という自発性はないことが透けて見えてきます。

 

もちろん、そうしたことを盾に自らの優位性を主張するつもりは殊更ありませんが、嫌らしい言い方であることを断った上で上記を踏まえて考えてみれば、幾億番煎じを辿っているにしても、私の行っている行為は自発的であり、四十万翠のような『自分で夢へ走れる人』であることは分かっていただけるでしょう。

つまり、「持てる者は持たざる者の気持ちは分からない」と言う言葉がある通り、正しく私は『自らの夢を持たない者がいる』という事実を見落としていたのです。

そうした事実を踏まえて改めて考えてみれば、『敢えて主人公にならない』という彼女たちの思考も見えてくるのではないでしょうか。

 

私たち『自分で夢へ走ることができる人』にとってすれば、夢という言わば「ゴール」を自らの手で設定できるが故、自分が想像し得る”主人公”というポディションを明確にイメージできます。

ただ、通常的或いは一般的な人物がそうしたポディションを獲得するためには、非常に高く険しい壁を乗り越えることが必要であるため、結果として”主人公”になることを諦める者が多いのです。

 

一方、彼女たち『夢を自ら持てない人』にとっては、”主人公”というポディションをある程度認識しつつも、自らの夢を持てないが故にそうしたポディションに対するイメージが霞んでしまいます。

だから、”主人公”というポディション、そこに到達するための壁をも、そもそも彼女たちの視野角/選択権の中には入らなくなるのです。

 

当たり前な話ではありますが、人は自分の視野角/選択権にないものを手に取ることはないと言っても過言ではありません。

即ち逆を返せば、人は自分の視野角/選択権の中のものを手に取って生活していくことになるということです。

つまり、視野角/選択権の中に”主人公”というポディションがない彼女たちは、そもそも「主人公になりたい」という欲が芽吹かぬまま、必然的に”主人公を支える脇役”という『主人公にならない』ポディションを夢見た生き方になってしまうのです。

そうして考えてみれば、『敢えて主人公にならない』という彼女たちの思考への理解に一歩進んだような気がします。

 

さて、押水菜子の説明も程々に2人目の紹介へと移りたいと思います。

2人目は『喜多郁代』というキャラクターです。

当人物はアニメ「ぼっち・ざ・ろっく」の登場人物で、主人公・後藤ひとりが所属する女子高生4ピースバンド・結束バンドのギター兼ボーカルを務める所謂”陽キャ”な女の子です。

彼女は同バンドに所属する山田リョウに憧れを抱いて同バンドへの参加を希望するも、実はギターの演奏経験は全くの皆無であり、バンド参加当初は間違えてベースを購入してしまうほどでした。

しかし、同じくギターを担当する後藤ひとり主導の手解きによって彼女はものの数か月で自らの役割を熟すまでに至り、ライブハウスでの演奏はもちろんのこと、学校内での文化祭ライブも成功を収めることが出来るようになりました。

そんな彼女ですが、文化祭ライブが終わったアニメ最終話にて後藤ひとりにこのような発言を残します。

私は人を惹きつけるような演奏はできない。
けど、皆と合わせるのは得意みたいだから、ひとりちゃんを支えていけるようになるね。

 

お分かりいただける通り、彼女は「後藤ひとり」という”主人公”を立てるために敢えて自ら”脇役”へと成り下がりました。

しかし、アニメ本編をご覧いただければ分かる通り、所謂「陽キャ」と括られる彼女の姿は、その性格と容姿を以てして確実に”主人公”としてのポテンシャルを秘めた才能ある人物です。

事実、バンドへの注目の仕方は幾通りあれど、やはりバンドの中で特に目につくボーカルを務めるのは紛うことなき彼女であり、文化祭ライブで客を最初に惹きつけたのはいくら身内と言えど彼女であったことに偽りはありません。

そうした意味で言えば、ボーカルをメインとして彼女をバンド内の”主人公”とする方が違和感が少ないでしょう。

 

しかし、そこまでのポテンシャルを秘めているにも関わらず、彼女は自ら”主人公”というステージを降板しました。

もちろん、ギターの役割における彼女のポディションはリズムギターである以上、リードギターでかつ確かな腕のある後藤ひとりのポディションに到底叶うものではないことを考えれば、ギターとしての主役/主人公は後藤ひとりに軍配が上がるのは間違いはないと言えます。

それを踏まえて彼女の言葉に耳を傾ければ、あくまで”リズムギターの立場として”後藤ひとりを支えるという解釈も出来ます。

とは言え、明文化されていない、あくまで私個人が感じたニュアンス的尺度で聞いていると、どうも彼女は当バンドを”後藤ひとりのためのバンド”として成り立たせようとしているように見えたのも確かです。

 

では、なぜそこまでして彼女は”主人公・後藤ひとり”に拘り、自ら”脇役”として徹しようとしているのでしょうか。

それは正しく、彼女が後藤ひとりに対して『尊敬心』と『忠誠心』を抱いているからではないでしょうか。

 

確かに、喜多郁代という人物は誰にでも明るく話せる所謂”陽キャ”であり、容姿も良く、歌も抜群に上手く、おまけに数か月でギターを演奏できるようになる程に呑み込みが早い…というバンドの主役/主人公として申し分ないポテンシャルを誇る人物ではあります。

しかし、ライブ等において当バンドがピンチに陥った時に密かに助け舟を出し続けたのは、そうしたポテンシャルを持つ彼女ではなく、当バンドリーダーである伊地知虹夏も本作中で触れていた通り、彼女とは正反対の生活を送る後藤ひとりでした。

更に言えば、先の通りに彼女にギターを教えていたのも後藤ひとりであり、彼女は後藤ひとりのギターテクニックを間近に肌で感じていた人物でもあります。

 

冒頭にもそれと無く述べたように、私はこれまで”主人公”とは第三者の視点で決められるものだと思っていた節がありました。

物事の全体像を第三者視点で見つめ、最も貢献した者が主人公である…と考えていたのです。

もちろん”主人公”の意味合いを考えれば、そうした考え方は何ら間違いではないのかもしれません。

しかし、今回ご紹介している「喜多郁代」という人物を見て、”主人公”というものは主観的に決めてもいいものであるということを改めて実感しました。

 

そもそも、”客観的”という言葉はあくまで私たちの思考上の話であって、現実的に私たちの目からは”主観的”な情報のみしか得られることはありません。

言ってしまえば、私たちが勝手に『客観的視点』という概念を作り出してしまっているのです。

そうした本来存在しないはずの『客観的視点』に囚われて主観性を厳かにしてきた私たちは、いつしか社会全体が認めるに足る人物を”主人公”として崇めるようになっていました。

 

しかし、『客観的視点』という私たちの幻想から身を断ち切り、改めて『主観的視点』で物事を見つめ直すと、社会全体には認められるに至らなくとも、自身の目から見える全体、即ち”主観的世界”ならば認められるに足る、所謂”尊敬”する存在こそがその人にとっての”主人公”と呼べるものであることに気が付きます。

つまり、人間が作り出した幻想である『客観的視点』に基づけば”脇役”と呼ばれる人物であっても、本来あるべき『主観性』をもってすれば、個々人が抱く”尊敬心”によってはその個人の中で”主人公”と呼ばれるに足る人物にもなり得るということです。

 

そうした”主人公”と呼ぶに至る”尊敬心”は、それ故にやがて「尊敬者の側で役に立ちたい」「付き従えたい」という”忠誠心”を生みます。

主人公に”忠誠心”を抱き、自ら主人公に付き従える存在となるというのは、即ち、ポテンシャルの有無に関わらず、自ら”主人公”という立ち位置を放棄して”脇役”に徹するということです。

そうした人物像を考えてみれば、正しく「喜多郁代」が浮かび上がるのではないでしょうか。

 

今まで「ボッチ陰キャ」であった後藤ひとりは、確かに観客などの第三者の視点で考えれば、当然ながら”脇役”以下の存在として目に映ることでしょう。

しかし、喜多郁代を含めるバンド仲間にとって、”後藤ひとり”という存在はピンチな場面にはいつでも持ち前のギターテクニックで助け舟を出してくれるヒーロー的な存在として映っており、喜多郁代はそうした力を持った後藤ひとりに『尊敬心』どころか『忠誠心』をも抱きました。

だからこそ、彼女の主観からは”ギターヒーロー”と名高い後藤ひとりこそ、バンド内の”主人公”に足る人物として映ったのです。

つまり、『客観的視点』から見て”主人公”のポテンシャルを秘める人物であったとしても、その者の『主観的視点』から「側で役に立ちたい」「付き従いたい」と”忠誠心”を抱けるほどに”尊敬”できるような『その者にとっての”主人公”』が見つかった時、人は自ら”脇役”として一石を投じるのです。

 

さて、ここまで2人のアニメキャラクターを用いて『敢えて主人公にならない』という生き方の理由を明かしてきました。

1つは押水菜子のような【そもそも自身の視野角/選択権の中に”主人公”というポディションが存在しない】というもので、もう1つは喜多郁代のような【尊敬心、忠誠心を抱ける自分自身にとっての”主人公”が既に存在する】というものです。

そして冒頭にもお伝えした通り、そこには双方とも諦めや後ろめたさなどの”マイナス的な感情”が込められるものではなく、むしろ、”脇役”に徹することが使命であると言わんばかりの「誇り」を持っているようにも見えます。

 

ここで1つ考えていただきたいのは、私たちは”主人公”であることを『プラス的』に、”脇役”であることを『マイナス的』に捉えがちになってしまっている節があるということです。

冒頭にもお伝えした「人生の主役は自分自身」などという言葉が生まれるのも、どこかで”脇役”であることにマイナス的な意味合いを持たせてしまっているが故の言葉なのだと思います。

 

もちろん、客観視した際における各個人のポテンシャルによる需要の多さで”主人公”/”脇役”というポディションが決まり、”生活水準”という現代社会における実質的な社会的優劣が定められるのは事実です。

しかし、三者三葉、十人十色、皆違って皆良い…などという言葉の通り、全人類須らくそれぞれ違ったポテンシャルを持つ生き物であり、それ故に他者と比べる基準に際限がないポテンシャルだけでは各個人の人間的優劣を付けられるものではないのです。

だからこそ、大事になってくるのは幻想によって作り出された『客観的』に定められる”主人公”/”脇役”というポディションなどではなく、そうしたものに囚われずに自身に与えられたポテンシャルを誇り、活かしきるという『主観的でポジティブな心』なのではないかと思います。

 

先も言ったように、前述した2名のアニメキャラクター・押水菜子と喜多郁代はそれぞれ”脇役”を徹することに誇りを持っているように感じます。

自らの夢を持てなかった押水菜子は、四十万翠が作り上げた喜翠荘という場所で「いち仲居」という”脇役”の立場として旅館を盛り上げようと夢を見ました。

後藤ひとりに”主人公”のポテンシャルを見出した喜多郁代は、尊敬心と忠誠心を以て「後藤ひとりの相方」という”脇役”として添い遂げようと努力し始めました。

どちらも『脇役』という立場に位置しながら、「喜翠荘の仲居」「後藤ひとりの相方」としての誇りを胸に自身に与えられたポテンシャルを以て自分の役割を全うしようとしています。

そうして”脇役”に徹した彼女たちに”主人公”のようなどこか輝かしい華やかさを見たのは、きっと私だけではないことでしょう。

 

何度も言う通り、大事なのは彼女たちのように自身に与えられたポテンシャルを誇り、活かしきる主観的でポジティブな心だと思います。

それは夢が叶った者、夢を追いかけている者、夢を半ば諦めた者、夢が見つからない者、誰かの夢を夢とする者…などという現状における自身の立場に関係などはありません。

もし”主人公”であろうが、主人公に付き従える”脇役”であろうが、その立場に囚われることなく自身に誇りを持つことが出来たのならば、彼女たちのように”主人公”に似た輝きを持つことが出来るかもしれません。

だからこそ、「彼女たちのように『敢えて主人公にならない』という生き方も少し考えてみてもいいではないだろうか」…と今回彼女たちの『敢えて主人公にならない』という理由を明かしてみて私自身も感じたところでありました。

皆も是非そうした彼女たちの生き方を少し考えてみてはいかがでしょうか。

 

それでは。


さて、今回はここで終わらせていただきます。

今後もこういった趣味のお話や私の独り言をブログに記していきますので、気に入っていただけたら再び足を運んでくれたら嬉しいです。

それでは、皆さんまたお会いしましょう。

さようならー。

コメント