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小野田紀美さんが語った「個人の得手不得手」から考える『男女の区分の優位性』

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皆さん、おはこんばんにちは。

雨宿時雨と申します。

 

さて、皆さんは小野田紀美さんという方をご存じいただいてますでしょうか。

小野田紀美さんは民主党の女性議員の1人で、現在は防衛大臣政務官を務めていらっしゃる方です。

男性が多い国会の中でも女性ながらに物怖じせず、核心突いた的確な言葉で周囲を圧倒する凛した姿は、さながら政治界のジャンヌダルクかのようなカッコよさがあります。

また、そのカッコよさとは裏腹に無類のアニメ、漫画、ゲーム好きというオタクな一面もあり、かなり親近感溢れる政治家さんでもあります。

 

そんなギャップ感が功を奏してか、最近ではYouTubeなどの切り抜き等でよく見かけるようになり、支持者の姿やその他様々な人の声をよく聞くようになりました。

かく言う私も、YouTubeの切り抜き動画にて小野田紀美さんを知った側の人間で、その言葉の鋭さにひどく感銘を受けたのを今でも覚えています。

 

しかして、感銘もつかの間、どこか違和感を覚えた発言があったのもまた事実であります。

特に下記のジェンダーギャップを語る動画には少し口を挟まずにはいられませんでした。

 

上記動画で小野田紀美さんはジェンダーギャップについて下記のように語ります。

女子中・女子高を卒業して育ったが、女子校で良かったと改めて思うことは『個人の得手不得手で役割を決めていた』ということ。

例えば、力が強い人が重い物を持ったり、料理が上手い人が文化祭で料理を作ったり…など、「男子だから/女子だから」等の”属性”ではなく、”個人の個性”で役割を決めていた。

だから、”属性”で見られる社会(政界)に驚きとギャップを感じざるを得なかった。

 

もちろん、上記の発言はあくまで自身の”感想”なので、私が意見する義理は何処にもありません。

しかし、『彼女の発言のような「個人の得手不得手で役割を決めてくれる世の中」であってほしい』…などと多数寄せられた動画のコメントには一言言わせていただきたいのです。

 

そもそも、『男/女』という区別は何故あるのでしょうか。

もちろん、人間以外の生物にも『オス/メス』という括りがあるように、”体の構造上の都合によって生物的な役割が異なるため”という大々的な理由はあることでしょう。

しかし、所謂”フェミニスト”と呼称される人たちの尺度で考えた時、「人を体だけで判断するのはいかがなものか」という特別人間に備わる”倫理的な感性”が働くのも、(過剰か否かという議論を除けば)理解できなくもない話だとも思います。

そうして考えた時、『男/女』という区分が本当に必要か問われるのは真っ当な議論です。

ただ忘れてはいけないのは、人間は”倫理的”でありながら”合理的”な生き物でもあることです。

 

『男女における脳や体の発達が違うことは既に科学的に証明されている』…というのは当ブログをご覧いただいている皆さんが知っての通りでしょう。

例えば、男は筋肉が発達しやすく女は肉付きが良くなる、男は論理的に行動しやすく女は感情的に行動しやすい…など、男女の違いだけで体や脳に多くの違いが生まれます。

当然、遺伝子レベルで差分が生じることを考慮すれば、体や脳の発達は個人によって多かれ少なかれ差が生じますし、”科学的に証明された”男らしさ/女らしさが男女逆で表れることもあるでしょう。

それについては神の手の内の話ですから、特別不思議なことでも恥じるようなことでもありません。

 

とは言え、”科学的な統計”に基づいて「大体の男は~/大体の女は~」と証明されているのは事実であって、その事実を変えることは遺伝子レベルでまず無理な話です。

そうして考えた時、合理的な人間はこうした事実を有効活用するのです。

例えば、筋肉が発達している男は力仕事、マルチタスクが得意な女は事務職…という具合に、科学的な統計に基づいて得られた男女の得手不得手によって大まかな分類分けをすることで、時間も手間もかけずにある程度の精度で簡単に振るい分けをすることが出来ます。

 

もちろん、先も言ったように個人間によって差があることを考えれば、本来個人の能力/得手不得手で役割を判断するのが一番良い方法でしょう。

特に、学校や職場などといった常日頃から互いに関わり、互いのことを知り得ている間柄であれば、然程の手間も掛からない可能性が高いですから。

しかし、互いを知り得ていないという状況下において、例えば上記のように重い物を運ぶ、料理担当を決める…等の日常的に有り触れている事細かい役割の決定に対し、わざわざ個人の得手不得手を把握し、選別しているほど暇な道理はないでしょう。

 

また、仮に互いを知り得ていた状況であったとして、各個人の得手不得手で役割が決まるならば、それは言ってしまえば、役割に偏りを生じさせて遺伝子レベルで損/得する者の明暗を分けているのと同義であるということになります。

例えば、生まれつき身長が高い者は否応なしに高い位置にある物を取らなくてはならなくなりますし、生まれつき力の強い者は否応なしに重い物を持たなくてはならなくなる…といった具合です。

こうして考えれば、”個人の得手不得手で役割を決める”という行為が如何に手間も時間も掛かり、その上、ある意味では不公平が生じるシステムであるかが分かるでしょう。

 

確かに、「男/女で役割を決定する」という言葉だけを切り取って聞けば、それはあまりにも不条理で倫理観に欠ける行為かもしれません。

しかし、一方で上記のように「個人の得手不得手で役割を決定する」という場合には、ある程度の時間と労力と不公平が付き物であって、そうした条件が伴わない状況下においては単なる”理想論”でしかなくなってしまいます。

そうして考えた時、”理想論”ではなく”合理性”を求めるのは必然的なのではないでしょうか。

 

もちろん、個性を求めた方がより倫理性があって、一見より人間らしくも思えます。

しかし、楽を求める怠惰な人類にとって”合理的”であることは非常に重要なポイントであって、時に倫理性よりも合理性を優先してしまうのが人間という生き物なのです。

つまり、ある意味『男/女』の区分は”合理性を求めた怠惰な人間らしさの象徴”でもあるのです。

 

そうした人間らしさを以て『男/女』の区分が生まれたことを考えれば、『「個人の得手不得手で役割を決めてくれる世の中」であってほしい』というコメントが如何に不毛なものかがよく分かることでしょう。

故に私はそんなコメントに違和感を感じざるを得なかったのです。


さて、今回はここで終わらせていただきます。

今後もこういった趣味のお話や私の独り言をブログに記していきますので、気に入っていただけたら再び足を運んでくれたら嬉しいです。

それでは、皆さんまたお会いしましょう。

さようならー。

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