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お金の歴史から考える『お金ってなんだろう?』

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皆さん、おはこんばんにちは。

雨宿時雨と申します。

 

突然ですが、皆さんは『”お金”って何ですか?』と聞かれて何と答えますか。

 

難しい質問を唐突に申し訳ございません。

「やぶから棒になんだ」と思われた方もいたことでしょう。

 

しかして、きっと皆さんも1度は上記のような問い掛けを耳にしていることと思います。

と言うのも、実は一時期、以下のようなcmが広告として流れていたことがありました。

こちらのcmのタイトルは『thinking man』というもので、クレジットカード会社・三井住友カードが製作されたものです。

本作品は現時点で4話続くシリーズモノの作品で、主演は小栗旬さんが務めており、動画の最後には『お金ってなんだろう』という問い掛けがなされるのが印象的です。

もうかれこれ4年くらい前のcmなのでお忘れだった方もいらっしゃると思いますが、私にとっては『お金ってなんだろう』というフレーズがどうにも忘れられず、今もこうしてブログにするほど印象深いcmとなっています。

 

さて、そんなcmに使われている『お金ってなんだろう』という問い掛け。

冒頭にもお聞きした通り、皆さんなら何と答えますでしょうか。

なかなか難しい質問ですから迷われる方も多いかと思います。

しかし、私ならこのような回答をすると思います。

 

“人間の欲の象徴”

 

どうでしょう。

もちろん、この回答を聞いて腑に落ちた人も落ちなかった人もいると思います。

中には「何を当たり前なことを」などと思った方も少なくないのではないでしょうか。

 

しかして、私は何も「お金は人間が常に欲しがるもので、時に人の人格すらも変え、時にお金を巡って争いを生むものであるから」などというありきたりな主張をするために本ブログを書いているわけではありません。

私に言わせてみれば、上記のような主張はあくまで『お金』という概念が誕生したことでできた”結果論”であって、私が本ブログで主張する「お金=人間の欲の象徴」の根拠には到底なり得ません。

 

では、私がそうした主張をするに足る所以はどこにあるのでしょうか。

それにはまず「そもそも『お金』という概念がどのようにできたのか」を理解する必要があります。

 

皆さんは、『お金』という概念がどのようにできたかご存じでしょうか。

紙やアルミなどの”物質的な”意味合いではなく、あくまで”概念”の成り立ちという意味です。

社会科や商業学科、経済学を勉強されている方ならある程度ご存じ頂いている方もいるでしょうか。

 

当たり前な話ですが、『お金』という概念は人間やその他の生物に基本的に備わっているものでも、元よりこの世に存在するものなどではなく、人間が後々に作り出した創造物の一種です。

その件については周知の事実だと思いますので省かせていただきますが、問題はその『お金』という概念が「いつ頃、どのような流れで生まれたか」という話になると思います。

 

さて、皆さんは石器時代に人類が狩りをしていたことはご存じでしょうか。

恐らくですが、歴史を勉強した大半の人はご存じ頂いている話だと思います。

事実、それは遠い昔、人類は動植物を狩猟、採取することで生計を立てていました。

 

しかし、現代の人間にも向き不向きがあるように、昔の人も狩猟や採取に向き不向きがありました。

馬や豚、鳥など動物の肉を狩るのが上手い人、魚を狩るのが得意な人、山菜を採取するのが上手い人、野草を採取するのが得意な人…などなど、人それぞれに向き不向きがあり、狩猟や採取をする品種に各家庭でバラつきがありました。

もちろん、最初はそれで満足できていた人間もいたと思います。

しかし、人間とは実に欲深い生き物で、やはり次第に別の食べ物が食べたくなるものです。

そこで多く獲りすぎて食べきれないものを他者に渡し、同じように他者が多く獲りすぎて食べきれないものを貰う、所謂”物々交換”が行われることになったのです。

 

そうして最初はお隣さん同士、ご近所さん同士で行われていた物々交換も、やがて多くの人が行うようになり、次第に人々はそうしたご近所との細々したやり取りを煩わしく思い始めました。

そして、いちいち余ったものを交換しに行くのが面倒くさく感じた人々は、ある時から週に1度くらいの頻度で余ったものを交換したい人を一堂に会する場を設けました。

これが所謂”市”と言うものであり、現在の商店街等の派生元となります。

市を行う回数は次第に週3回、週5回…と増えていき、やがて週7回と固定されることになりました。

 

しかし、ここで新たな問題が発生することになります。

「物の価値が釣り合わない」などと発言をする人が増えてきたのです。

 

確かに物の価値は一定的なものではなく、人によって多少のズレが生じます。

例えば、マグロ1匹の価値と豚1頭の価値が同じという人もいれば、マグロの方が価値が上という人もいますし、逆に豚の方が価値が上という人もいます。

今でこそ「何グラムでどこ産だから何円」などと価格を決めることで価値を図ることができますが、『お金』という概念がない昔の世界では固定的な価値基準などはないのと同義です。

だからこそ、「私は魚を3匹も出しているのだから、貴方は豚2頭くらい出しなさい」「いやいや、この魚はそこそこ大きいのだから1頭で十分だ」などという不毛な言い争いが生じるのです。

 

とは言え、固定的な価値基準がない以上は言い争いは避けられません。

そこである人は考え付きました。

【物をあげる側は鉱山資源である金の重さを物の価値として提示し、逆にもらう側は提示された重さ分だけ金を渡せばいいのではないか】と。

そうして生まれたのが『お金』という概念なのです。

その後、人々は物と物を交換する生活から物と金を交換する生活へとシフトチェンジし、多くの人の価値基準を固定することで不毛な言い争いは減っていきました。

 

しかし、その一方で弊害も生まれました。

『金は持ち運ぶには重いし不便』という物理的弊害です。

確かに、金を常に持ち歩くのは流石に重くて肩が凝りますし、とても現実的とは言い難いものです。

そこで人々は金を加工することで持ち運びやすくすることを考えました。

具体的には、日本初の流通貨幣である和同開珎のような薄い円型のもの、大判や小判のような薄い楕円形のものに加工され流通されていました。

これが所謂”貨幣”の成り立ちであり、”貨幣経済”の始まりです。

 

こうして現代に近い経済状況が作り出されましたが、まだまだ満足できないのが人間の悪い癖です。

金の塊と比べてかなり軽く持ち運びやすい形になったと思いますが、先ほど出てきたような貨幣ではまだ重たいと言うのです。

とは言え、確かに大判の重さは約200グラムほどであり、現代の100円玉や10円玉は約5グラムほどの重さであることから考えればかなり重いことが分かります。

これならば大富豪の方は所有するだけで骨が折れる思いをするのもよく分かります。

 

そして、そこで名乗りを上げたのは”両替商”と呼ばれる人たちです。

彼らは貨幣間の交換などしたり、貨幣の貸借したりすることで生計を立てる、言わば現代の”銀行”のような役割を担っている人たちで、これまで多くの実績や信頼をものにしていました。

 

そんな彼らが今回提案したのは「大判や小判、その他貨幣や金などを両替商に預け、その貨幣等の量を書いた紙を預けた者に渡す」というものでした。

例えば、100グラムの金を両替商に預けた場合には、100グラム分の金を預かったことを示す紙を両替商から貰えるということです。

もちろん、その紙は両替商に持っていけば両替が可能であり、紙と預かった分だけの貨幣が戻ってくる仕組みになっています。

簡単に言ってしまえば、現代の”小切手”のような役割を果たすということです。

 

紙であれば金や貨幣と違って軽くて持ち運びやすくなりますし、管理も簡潔になります。

そうした利便性からか、両替商が発行する紙はあっという間に浸透していき、やがて紙が金や貨幣と同等の価値、むしろその紙こそが貨幣としての意味を持つようになっていきました。

これが所謂”紙幣”の成り立ちです。

 

こうして現代のような貨幣制度が整った今、更なる利便性を求め、貨幣の実態を持たないクレジットカード、そもそも物体としての実態を持たない仮想通貨や電子マネーなどが現れました。

これが『お金』の概念の成り立ちであり、その後の『お金』の変化の流れです。

 

さて、こうした『お金』の成り立ちを振り返ってみると、あることが見えてくると私は思います。

それは「『お金』はどれだけ形を変えても全て人間の欲から出来ている」ということです。

 

上記の成り立ちの通り、そもそも『お金』という概念は「物々交換において少しでも損をしたくない」という人間の欲から出来ているものです。

しかして考えてみれば、そもそも”物々交換”とは「自分が要らないものを他人に与える代わりに他人の要らないものを貰うシステム」として確立されたものです。

つまり、そもそも物々交換の対象物は自分にとって”要らないもの”、言ってしまえば、自分にとって”無価値なもの”なわけですから、本来そこに”損”という概念は存在するはずがないのです。

むしろ、”要らないもの”を処分することができる上、これまで手に入らなかったものを貰えるチャンスが発生するのですから、それだけで”お得”なシステムだと言えます。

 

にも関わらず、人々はそこにあるはずのない”価値”の大小関係によって自らの損得を主張しました。

それは簡単に言ってしまえば、本来0だった価値を「1、2、3…の価値がある」と主張して話を盛ったということになります。

 

もちろん、他者にとってみれば主張する相当の価値があるものなのかもしれません。

事実、オークションサイトやフリーマーケットなどが発達した現代においても、自分にとって不要なものに1円以上の価値が付くわけですから、価値観のズレが生じていることは明白です。

 

しかし、”要らないものをあげる”という物々交換のシステム上、本来であれば自ら対象物の価値を主張する行為は意にそぐわないものであると言えます。

そうした中でもなお、対象物の価値を主張することで争いを起こし、『お金』という新たな概念を構築するまでに至った人間に、私は自分本位な人間の強欲さを見てしまいます。

 

また、『お金』という概念を作ってもなお、人間は「重い」「使いにくい」などと言って悪態をついては、楽になる方法を探し続けましました。

確かに、こうした考え方が文明レベルを底上げしてきたのは事実です。

しかし、それは言い換えてしまえば、人間は「今以上に楽をしたい」などと現状に満足することを知らない欲に溢れた生き物であるとも言えます。

そういったところからも「『お金』は欲の象徴である」と言えるのではないでしょうか。

 

もちろん、人間の欲が背景となったものは何も『お金』だけに限った話ではなく、人間が作り出したもの全てに通づる部分はあると思います。

ただ、冒頭にもお話したように、人間は『お金』を欲するがあまり、人が変わったように目の色を変えて『お金』を巡って争うことがあります。

そういった現代における背景が、より一層人間の欲深さから成り立った『お金』という概念に拍車をかけ、「『お金』=人間の欲の象徴」という印象を色濃くしているのではないかと思います。

 

だからこそ、私は声を大にして「お金とは何か」という問いかけに答えるのです。

“人間の欲の象徴”であると。

 

さて、『お金』の成り立ちなどを紐解いてみて、私の主張も分かっていただけたと思います。

とは言え、あくまでこれは私の主張でしかありません。

肝心なのは、『本ブログをご覧いただいて皆さんがどう感じたか』です。

なので、最後に最初と同じ質問をいたします。

 

皆さんは『”お金”って何ですか?』と聞かれて何と答えますか?

 

是非この機会に考えてみてはいかがでしょうか。

それでは。


さて、今回はここで終わらせていただきます。

今後もこういった趣味のお話や私の独り言をブログに記していきますので、気に入っていただけたら再び足を運んでくれたら嬉しいです。

それでは、皆さんまたお会いしましょう。

さようならー。

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