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「桐島、部活やめるってよ」から学ぶ”人間としての存在意義”

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皆さん、おはこんばんにちは。

雨宿時雨と申します。

 

さて突然ですが、皆さんは『人間皆平等』などと言う言葉を聞いたことがありますか。

言葉の通りに「人間は皆すべからく平等である」という意味ですが、世の中そう簡単なものではないというのは言わずもがなだと思います。

学生であっても社会人であっても、この世の中どの国、どの業界に行ったとしても必ずヒエラルキーというものは存在するものです。

 

それは『同じ人間はいない』などと言うように、外見内面問わず生まれ持った能力値が違う以上は致し方のないことだと思います。

才能やカリスマ性のない人間がそういった能力のある者に惹かれるのは、野生で生活する上で自分の命を守るために必死で身に着けた先人の知恵なのですから。

 

しかしながら、必ずしもそのヒエラルキーを重視すべきかと言えばそうではありません。

ましてや、ヒエラルキーを有難がって上の者に付き従い、こびへつらおうとする…などという行為は到底必要のないことだと思います。

 

もちろん先も言った通り、生物としての本能的なセオリーからすれば、上の者を蔑ろにする行為自体が周囲の者から嫌悪の目で見られる対象となり、社会的死を生み出す原因となるかもしれません。

ただ、本来人間は他者から生物的死を被ることがないことを考えると、そのセオリー通りに行動する意味はないと言っても過言ではありません。

むしろ、ヒエラルキーばかりを優先するがあまりに上の者を立てて自分を厳かにする行為は、言ってしまえば、個性を自らの手で殺した個人の自死と言えるでしょう。

 

『人間は平等ではない』と冒頭にも述べた通り、そうした不平等が起きるのは人間に”個性”があるため各個人で様々な差が付くからです。

しかして逆を返せば、その差を生み出した”個性”があるからこそ、人間が個人として認められる所以になり得るのもまた事実です。

 

ヒエラルキーに準じた形で上の者を立て、自身を厳かにすることで自身の”個性”を殺してしまえば、それは即ち自らの手で人間的死を選んだも同然と言えるでしょう。

そうして考えてみれば、社会的死を恐れてヒエラルキーばかりを気にしていることが如何に馬鹿げた行為かというのはお分かりいただけることでしょう。

 

さて話は変わりますが、皆さんは『桐島、部活やめるってよ』という映画をご存じでしょうか。

タイトルが良かったのか、主演が良かったのか、作品の構成が良かったのか…。

何にしろ一時期流行っていた作品ですから、ご存じの方も多いことでしょう。

 

本作は所謂”陽キャ”の中でも絶対的主導権を持つバレー部のエース”桐島”の部活引退の噂を中心に巻き起こる目まぐるしい人間関係を描いた群像劇です。

…と一言簡単なあらすじを紹介したところ、早速のネタバレで申し訳ございませんが、実は本作中に”桐島”という人物は出てきません。

本作はあくまで”桐島”を中心とした人間関係がメインの映画なのです。

ただ、この演出こそが本作で最も重視するべきポイントと言えます。

 

あらすじにもある通り、本作は”桐島”を中心とした物語であることに間違いはありません。

それは”桐島”の友人、彼女、バレー部仲間によって話が進んでいることからも分かることでしょう。

話の進行として簡単な内容を言えば、彼らは”桐島”の部活引退の噂が広まった際に大いに困惑し、主演・神木隆之介が演じた前田が所属する映画部を巻き込むほどに大暴れしました。

こうした内容からも分かる通り、彼らにとって”桐島”というたった1人の人物はかなり”偉大な存在”であったということが伺えます。

 

しかして、本作ではそんな偉大な存在である”桐島”という人物を抜きにして物語が進行します。

言ってしまえば、本作もとい観客にとって”桐島”という存在の有無は全く関係のない話であるということになります。

そうした『”桐島”の影響を受けない』という意味では、作中に出てくる映画部や大後寿々花が演じる吹奏楽部部長にとってもまた”桐島”の存在の有無は全く関係ありません。

つまり、”桐島”という存在は確かに”桐島”を中心とする人物にとってすれば偉大で必要な人物であるのかもしれませんが、観客を含んだそれ以外の人物にとっては特段関係のない人物であるということなのです。

 

とは言え、人に影響を及ぼさないのは別に”桐島”に限った話ではありません。

それは部の功績を他生徒に馬鹿にされた映画部、東出昌大が演じる”桐島”の親友・菊池に全く振り向かれなかった吹奏楽部部長などを見れば一目瞭然だと思います。

映画部部員にとっての”映画部”、吹奏楽部にとっての”吹奏楽部部長”の存在は確かに必要なものですが、その一方で他の者にとっては不要な存在でもあったわけです。

 

ただ残酷な話、『必要な存在』というのは誰が取って代わっても変わりがないというのが現実的なところです。

本作に限った話で言えば、”桐島”と同じような役割を果たす者であれば、居心地の良い部活であれば、吹奏楽部部長の役割を果たせる者であれば、正直誰であれ、何処であれ構わないものなのです。

たまたま”桐島”の役割として、映画部の役割として、吹奏楽部部長の役割として、相応しい人物や場所がその場にあったため、その人物や場所をその役割として採用しているだけに過ぎないのです。

 

つまり、必要なのは”その人自身”ではなく、あくまで”その人の役割”でしかないのです。

それを踏まえた上ではっきりと申し上げれば、人間はすべからく”不要な存在”と言えるでしょう。

 

作中で神木隆之介が演じる前田は桐島中心のメンバーに対してこう言い放ちました。

「お前らの方がおかしいじゃないか!」

この前田の言葉が本作において最も重要視されるべき発言だと思います。

 

先ほど『人間は全て不要な存在である』と申しましたが、前述の通りにそれは本作の”桐島”とて変わりのないことです。

そんな”不要な存在”に固執して目の前の自分自身を蔑ろにする桐島中心のメンバーは、冒頭にも述べた通り、”個性”を殺した人間的死を自ら選んだ馬鹿げた人達であると言えます。

 

一方、馬鹿にされ、無謀だと分かっていながらも、自分自身の想いや夢、目標へ実直に向かい合った映画部部員や吹奏楽部部長。

確かに、彼らはヒエラルキーの中では最下層の人間かもしれませんが、自ら人間的死を選ばないどころか、個人たる所以である”個性”をひたすら優先し続けました。

それは良く言えば、彼らは1人の人間として理想的な生き方をしていると言えるでしょう。

そんな彼らからすれば、”人間として”おかしいのは”不要な存在”に固執して自身を蔑ろにし続けた桐島中心のメンバーと言えます。

 

そうした”おかしさ”は、確かに『ヒエラルキー上位』という社会的地位を確立し、その時限りの欲求を満たすきっかけとなることでしょう。

しかして、その果てに行きつくのは後悔となり得ることもまた事実です。

 

東出昌大が演じる桐島の親友・菊池は、桐島に負けるとも劣らないルックスと運動神経の持ち主であり、桐島同様に所謂”陽キャ”と呼ぶに相応しい人物です。

そんな彼は野球部に所属しており、その腕前はキャプテンから何度も試合の出場をせがまれるほどのものでありましたが、彼は完全に幽霊部員化しており、先輩からの誘いも全て断っていました。

その経緯については本作では明かされませんでしたが、彼が部活も出ずに桐島を中心として行動していたのは、彼が放課後に桐島の帰りを待つようにしていたことからも明白でしょう。

 

そうした生活が続いていた最中、中心である”桐島”との連絡が急に途絶えてしまいます。

中心”桐島”が消えたことで自身を見つめ直す機会が増えたのでしょうか。

菊池は野球部キャプテンに「試合に出せて欲しい」と口を開こうとしましたが、キャプテンからは「応援にだけでも来てくれ」と菊池が試合の出場を断ることを前提に話を切り出されてしまいます。

 

その後、菊池は前田と屋上でやり取りすることとなりますが、その中で前田は「映画監督にはなれない」という後ろ向きな言葉とは裏腹の楽しそうに趣味について語る姿を菊池に見せます。

そんな前田から菊池に対して「カッコいいね」という肯定的な言葉が投げかけられ、菊池はその言葉に思わず涙を流してしまします。

 

先ほども言った通り、菊池は野球部の練習にも出ずに桐島を中心として行動していました。

言ってしまえば、菊池はそうした”不要な存在”に感けて『部活』という自身の目の前の目標を蔑ろにしてきたというわけです。

それに対して、馬鹿にされて無謀だと自身で分かっていながら、実直に自分の趣味に没頭する前田の姿は、なあなあな日々を過ごしてきた菊池にとって心揺るがされる存在であったのです。

そうした存在である前田から肯定的な言葉が投げかけられた菊池は、”不要な存在”に踊らされ、自分の本心に目を向けなかった自身の愚かさに後悔し、前田が菊池に向けた「カッコいい」とは裏腹の自分自身の「カッコ悪さ」を恥じて涙を流したのです。

 

とは言え、本作最後のカットは菊池が桐島に電話を掛けるシーンで終わりを迎えます。

菊池が桐島に何を伝えようと思ったのか知りませんが、今まで”個性”を殺して人間的死を選んできた”人間として”何もない菊池にとって”桐島”という存在が最後の砦だったのです。

だからこそ、涙を流すほどに後悔したのにも関わらず、菊池は中心的存在であった”桐島”に電話を掛けてしまうのです。

 

本作は神木隆之介が主演であるばかりに前田に注目してしまいがちですが、個人的には東出昌大が演じる菊池の方が本作の主役のような気がします。

それは前述した通り、菊池が本作の中で最も成長していることからも分かることでしょう。

そんな主役・菊池から学ぶべきことは、やはり自身の想いや目標、夢などを他者の目を気にして蔑ろにしてはならないということです。

 

もちろん、本能的に「どう見られるだろうか」「どう思われるだろうか」と”社会的死”を恐れるのも理解できますし、「無理なのではないか」「出来るわけないだろう」と高を括り保守的な気持ちになるも十分に理解できます。

しかして、何度も申し上げている通り、この世に住む人間の誰しもが”不要な存在”です。

そうした”不要な存在”である人々の目や言葉、それらから構築されるヒエラルキーばかりを気にして、”社会的死”を恐れながら自分の想いや目標、夢を無下にしてしまうのは、社会などと言う以前に個性を見出せる1人の”人間”として死んでいるのも同然と言えます。

折角”人間”として、”不要な存在”として生きているのならば、”不要な存在”である他者に目や耳を傾け、自分の想いや目標、夢という”個性”を自ら殺して後から後悔してしまうのは勿体ない話だと思います。

ですから、やはりそうした”個性”は自分自身で絶やさずに育てていくべきなのです。

それが人間としての存在意義がなくなった菊池のようにならないための本作における教訓なのです。


さて、今回はここで終わらせていただきます。

今後もこういった趣味のお話や私の独り言をブログに記していきますので、気に入っていただけたら再び足を運んでくれたら嬉しいです。

それでは、皆さんまたお会いしましょう。

さようならー。

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