皆さん、おはこんばんにちは。
雨宿時雨と申します。
さて、先日私は下記のような記事を読みました。
今の若者は、相手の心や内面に近づくのを悪だと感じる – Togetter
内容はタイトルにもある通り『最近の若い人は他者の内面に迫るのは”悪”だと思っているのではないか』という旨が綴られたものとなっています。
この記事を読んだ際、私はある違和感を感じました。
そこで今回はそちらのお話をしていこうと思います。
結論から率直に言えば、若い世代は『他者の内面に触れることが悪だと思っている』のではなく、『あえて触れる必要がないと思っている』というのが正しい言い方なのではないかと思います。
一番わかり易い例としては“ハラスメント問題”。
昭和の頃には様々なハラスメントが存在していたと聞きます。
例えば、パワハラやセクハラ、モラハラ…などなど。
もちろん、現代でも著しく取り上げられる話ではありますが、現代では昭和の頃のような”あからさまな”ハラスメント”は減ってきたように思います。
そもそも”ハラスメント”として最初に問題になったのは1989年。
当時初めて『セクハラ』が問題視、裁判まで開かれることとなり、その後、流行語大賞や男女平等を掲げる法律ができるなど、多くの人の意識を変えました。
さらにその約10年後の2001年には、コンサルティング会社のとある社長が『パワハラ』を定義することとなります。
しかし考えてみると、『セクハラ』という言葉は昔から馴染みがあるのに対し、『パワハラ』という言葉はどこか新しいように感じます。
もちろん、言葉が提唱されるのに10年も違いがあったわけですから、感じ方に差があっても何ら不思議ではないのかもしれません。
とは言え、差がありすぎ感も否めないのもまた事実です。
では、その違いは何なのか。
私は『人々の認知の差』であると読み解きます。
『セクハラ』は裁判を起こしたことで多くの人々に認知されるようになりました。
それこそ新語流行語大賞に選ばれる程に。
一方の『パワハラ』に関して言えば、確かに多少の話題性はあったものの、世間一般的に認知されるほどのものだったかと言われると、お世辞にもそうとは言えないのが事実です。
こうした『人々の認知の差』が『セクハラ』『パワハラ』という言葉に差をつけたのです。
しかして、ここで私は疑問に思うのです。
なぜ『セクハラ』と『パワハラ』でここまで認知の差に違いがあったのでしょうか。
逆に、なぜ『パワハラ』という言葉は現代ではメジャーな言葉になったのでしょうか。
さあ、皆さんはどう読み解くでしょうか。
私はその答えこそが、まさに本ブログの解に繋がる鍵を握っていると思います。
さて、焦らしても仕方がありません。
再び結論から言いましょう。
答えは『ネット』です。
『セクハラ』という言葉が世間に広まった1989年には、すでにパソコンや携帯電話といったデジタル機器が登場しておりました。
とは言え、まだまだ登場したばかりの頃です。
ほとんどの人はデジタル機器を有しておりませんでした。
そのため、情報の仕入先はテレビや新聞、雑誌、人づて…など、今では少し古典的な方法でしか情報が手に入りませんでした。
すると、全国的な認知を獲得する情報は必然的にテレビや新聞で見るような大きなニュースとなってしまいます。
そうして考えれば、当然、裁判沙汰にまで話が膨れ上がった『セクハラ』問題はテレビや新聞のニュースに取り上げられ、『セクハラ』という言葉は全国的に認知されるようになります。
一方、『パワハラ』という言葉が登場した2001年には、パソコンや携帯電話の普及が進んでいました。
しかし、それはあくまで1989年に比べたらという話であって、当時のインターネット普及率は44%程度と、現代と比べれば圧倒的な少なさでした。
そんな中で情報を仕入れるとなると、やはり基本的には1989年代と同様にテレビや新聞、雑誌、人づてなどが主流となってしまいます。
そうして考えるのならば、あくまでコンサルタント会社のいち社長が定義付けした言葉でしかない『パワハラ』という言葉を、当時需要の高いテレビや新聞で取り上げるほどかと言われれば、取り上げないのが当然の結果と言えます。
そのため、『セクハラ』と比べ『パワハラ』という言葉は必然的に全国的な認知がされなくなってしまうのです。
そうして人々に認知されないまま話題が過ぎ去った『パワハラ』という言葉ですが、年々増加するインターネットの普及の中で多くの人に認知されるようになり、時として声を上げる人も多くなりました。
やがて、その声は政府の耳にも入るようになり、今では法律的に禁じられる行為にまで発展しました。
つまり、端的に言えば、『ネット』の普及によって人々の声が認知しやすくなった、逆を返せば、己の声を認知させやすくなったのです。
この時代の進歩は、先の例の通り『問題点を全国的、もっと言えば世界的に提起できるようになった』というかなりの利点にはなりました。
しかして、その利点が逆に欠点へとつながる要因にもなったのです。
と言うのも、ありとあらゆる問題点ばかりが世の中に提起されてしまったばかりに、逆にがんじがらめの世の中になってしまったのです。
先のハラスメント問題もそうだと思います。
これまで『ネット』というものがなかったために、吐出口が会社や家族といった小さな世界で収まっていました。
しかし、『ネット』が一般化さた現在、TwitterやインスタなどのSNS、2chなどの匿名掲示板、本ブログのような自己サイト…などを使用し、全世界に己の思いを発信することができるようになりました。
そうした結果、”ハラスメント”として全世界に問題提起することができるようになり、問題者の抑圧、やがては問題の減少へと導くことができたのです。
その証拠として、いままで形骸化していた”ハラスメント”が問題だと多くの人が再確認したのか、最近では”ハラスメント”の報告が大分多くなっているそうです。
…と言ったように、こういった問題が問題視されることで、より心地よく住める国になるのは良いことではあります。
とは言え、世の中にはこの仕組みを逆手に取る人間もいることは紛れもない事実です。
例えば、肩に触れただけで『セクハラ』と言われたり、少し注意しただけで『パワハラ』と言われたり…など、的外れなことを言い出す人間が一定数以上は存在します。
さらに厄介なのは『なぜかその意見に賛同する人たちがいる』という事実です。
これらの人は『ネット』を使用し、悪人でない者を悪人へと仕立て上げて全世界へと発信します。
また、それはハラスメントに限らず、様々な事柄においても言えます。
これまで許されてきた多少のマナー・ルール違反を指摘する人、何かに付けて間違いを指摘し揚げ足を取る人…などなど。
全国的なネットの普及とその匿名性を利用して、普段現実世界では指摘できないことをネットで指摘する人が増えたのです。
そうしたネットの普及に伴う”指摘”のために、これまである程度緩かった世の中は、むしろ逆に”監視社会”とも呼べるほどのがんじがらめの世の中へと変貌を遂げてしまったのです。
そして、こうしたことを直に見て知っている現代の若い人たちは、これまで当たり前だった言語的、非言語的コミュニケーションを“何らかのリスクがあるもの”として捉えるようになるわけです。
だからこそ現代の若い人たちは、何らかのリスクを背負ってまで言語的、非言語的コミュニュケーションを取り、他者の内面に触れる必要がないと思ってしまうのです。
もし仮に必要だと思ったとしても、今の現代にはそれ以上に心を満たしてくれる『ネット』という存在があるため、無理にコミュニケーションを取ろうとしなくなります。
要するに、「『ネット』が普及、充実化してしまった現在において、何らかのリスクを背負ってまで人の内面に触れる必要がない」と最近の若い人は思っているのです。
もちろん、『内面に触れることが悪』と思っている人もいるかと思います。
しかして、その根本を辿れば「アレもダメ、コレもダメ」という『ネット』の普及に伴った印象操作によるものが原因であることが多いと思います。
であれば、人間が便利だと思って創り上げた『ネット』という技術は、皮肉なことに”人間”、もっと言えば”生物”として重大なものを削ぎ落とさせたことになります。
そうした”人間らしさ””生物らしさ”を失わせているのは何も『ネット』だけではありません。
人間が楽に生きようとして得た現代技術、それら全てに言えることだと思います。
しかして、今一度皆さんにはお考えていただきたいのです。
若い世代に『他者の内面に触れる必要がない』と思わせるまでに実害を出している現代技術。
私たちはこれらの技術に頼ったままで本当にいいのでしょうか。
もちろん、便利なものにすがりたくなる気持ちは私も理解しております。
現にこうして現代技術である”パソコン”で本ブログを書き上げているのですから。
ただ、やはり私も元記事と同じように、現代技術を使うことで”人間らしさ””生物らしさ”を失うことに少し寂しさを感じています。
そういった事柄は『進歩に伴う犠牲』と言えば聞こえは良いのでしょうが、”人間らしさ””生物らしさ”を犠牲に得た進歩は果たして本当に”進歩”と呼べるのでしょうか。
私はむしろ“退化”だと思っています。
皆さんはどうお考えでしょうか。
是非ご意見をお待ちしております。
それでは。
さて、今回はここで終わらせていただきます。
今後もこういった趣味のお話や私の独り言をブログに記していきますので、気に入っていただけたら再び足を運んでくれたら嬉しいです。
それでは、皆さんまたお会いしましょう。
さようならー。
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