皆さん、おはこんばんにちは。
雨宿時雨と申します。
今回の時雨ブログは「頑張りは認めてほしいものか、否か」というお話をしていこうと思います。
さて先月3月19日、HoneyWorksさんがYouTubeにて新曲を投稿しました。
新曲のタイトルは『誇り高きアイドル』というもので、公式ボーカルはKotohaさんが担当しております。
HoneyWorksさんの曲というと、曲の中に出てくる登場人物一人一人に焦点を合わせ、曲を通して物語を進行させていくのが特徴です。
HoneyWorksさん好きの方ならタイトルで察しがつくと思いますが、今回の曲の主人公はアイドルであるmonaさんこと、成海萌奈さんとなっており、アンチへの逆アンチテーゼ的な曲となっています。
アンチテーゼということもあり、可愛らしい見た目のアイドルらしからぬ、カッコよく、それでいて力強い曲調であり、歌詞も勇気づけられる、元気が出るようなものになっております。
詳細が気になった方は、是非一度聞いていただければと思います。
さて、そんな曲のサビ中にはこんな歌詞があります。
非常にパンチがあって、力強い歌詞だと思います。
この歌詞に対し、この動画のコメント欄では……
「頑張りを当然と言うな」っていう歌詞がすごい胸に刺さる。
可愛くない一般人だけど頑張りを認めて欲しい!
『頑張りを当然と言うな』 シンプルだけど1番この歌詞が大好きだ。
……などなど、共感の声が多数散見されました。
確かに、実際問題、それができずに路頭を彷徨っている人もいるわけですから、「頑張ること」=「努力すること」は決して当たり前のことではなく、それができる人たちは素晴らしい人たちだと、私も思います。
ただ、『この歌詞に全面的に賛成か』と聞かれてしまうと、それもまた違うような気がします。
実は、この歌詞に対するコメントでは、かなり白熱した賛否両論が繰り広げられています。
「勉強して当たり前」って言われるけど、その頑張りを認めて欲しい…
認められたいなら結果出すしかない。
頑張った自分を自分で認めて誉めてあげよう!
どれだけ小さいことでも頑張ったなら褒められたいです。
……こういうような意見が繰り広げられていたわけですが、私はこのコメントを見ていて非常に悶々としました。
何をそんなに悶々としていたのか、という話ですが、その話に入る前に注意点として、この話は実際何が正しくて、何が間違っているのか、という判断が非常に難しいので、ここからの意見は私個人の意見になることをご了承ください。
では、話に入っていきたいと思いますが、まず第一に、「頑張りを当然と言うな」という歌詞は、この歌の中ではどういう意味として使われているのか、という疑問が浮かび上がりました。
この議論の発端は間違いなくこの歌、もっと言えばこの歌詞にあります。
であれば、この歌の中でのこの歌詞の意味は、しっかりと把握しておくべきだと思います。
それを探るには、この歌い手である成海萌奈さんの人物像を知る必要があります。
私もあまり詳しいことは存じあげませんが、成海萌奈さんの歌う今回の曲や「ファンサ」などを聞いていると、自己肯定感が少し低く、自分に自信があまりないような女の子という印象を受けます。
しかし、そんな性格だからこそ、そして何より、応援してくれるファンがいるからこそ、頑張って上まで這い上がろうとする、他人のために頑張れる優しい努力家さんな一面もあるように見えました。
そんな性格の人間が果たして「自分の頑張りを認めろ」と自身をアピールするでしょうか。
それを考えると、歌詞にある「頑張りを当然と言うな」という言葉は、「頑張りを認めてほしい」というよりかは、「頑張りを認めてくれなくてもいいから、頑張っている自分を否定しないでほしい」という切実な願いに聞こえます。
確かに、頑張っているところを「頑張っても無駄だ」とか「頑張るのが当たり前」とか否定されたら、やる気も削げてしまいますから、否定はされたくないものですよね。
つまり、この歌、この歌詞はあくまで「認めてほしい」という『承認欲求の表れ』ではなく、単に「切実にやめてほしい」と願う『アンチに対する拒否感』を示す歌詞であることが分かります。
そのことを考慮して考えると、この議論はこの歌に対するコメントとして的を得ていないようにも感じますが、この議論に思うこともあるのでもう少しお話させていただきたいと思います。
正直、私も頑張りを認めてもらいたいところはあります。
どれだけ頑張っても、結果を残せなければ誰からも認めてもらえないというのは、頑張っている自分があまりにも惨めであり、何のために頑張っているのか分からなくなってしまいそうですからね。
結果が出ずとも、その頑張りだけは認めてほしいものです。
しかし、そんな感情とは裏腹に、認めてほしくないと思う感情があるのも事実です。
結果も出せていないのに認められたら、それもそれで、頑張ったのに結果が出せなかった自分が情けなく、惨めに思えてきて、非常に悔しく、自己嫌悪に陥ってしまいそうになるからです。
よく言う、失敗したときに優しくされると泣いちゃう現象、ですね。
このように私自身、どちらの立場でもあるので、「認めてほしい」「認めてほしくない」という双方の意見、気持ちは非常によく分かります。
この世の中は結果が全てであり、その結果をもとに頑張ったかどうかの判断が下されるため、結果を出すしかない、その結果が出るまで頑張っている姿を見られたくない、そういう気持ちもすごく分かります。
この世の中は結果が全てであることが分かっているからこそ、結果が出ずとも褒められたい、認められたい、その感情は「甘え」だと分かっているけれど、それでも頑張っている現状を褒めてほしい、認めてほしい、という気持ちもすごく分かります。
前述させていたきましたが、やはりこればかりは人によって感覚が違ってくるでしょう。
それもそのはず、そもそも「頑張り」に対するその意味や目的は、人によって変わってくるものなわけですから。
例えば、『別にやりたいことでもないけれど、やらなきゃいけないことだから、何とか頑張って成し遂げたもの』と、『自分が本当に目指すものがあって、良い結果を目指して頑張って成し遂げたもの』とでは、その「頑張り」に対する意欲や意味、目的、その他諸々のいろいろなことが違ってくると思います。
それと同じで「頑張り」とは、その対象の事柄や人によって大きく変わってくるのです。
だから、ここでは一概に正解、ましてや不正解でさえも決めることができないのです。
ただ、模範解答というわけではありませんが、この議論のおかげで私なりの答えは見つけられたような気がします。
私は以前ブログで「なぜ頑張っているのか」という議題に対して、「自分のため」だと答えました。
それは今でも変わっていません。
私は自分のために様々な努力をし、結果を残そうとしています。
だから、先ほども言った通り、たとえ他人から私の「頑張り」を認められても、残した結果が私の納得いく結果でなければ落ち込みますし、むしろ、認められることで余計に凹みます。
しかし、「頑張り」を認めてもらえなさすぎることで萎え始めるのも事実です。
このことを通して、私が下した私なりの結論は、『口に出さずとも、態度や雰囲気で「頑張り」を認めてくれると嬉しい』というものだと考えました。
ものすごくどっちつかずで、身勝手で、我儘な結論に至ってしまいましたが、上記のことを踏まえると、これが私の考える最善の結論かなと思います。
当然、「頑張って」と口に出してくれるもの嬉しいですし、たとえ応援されていなくても、『見てくれている』という、その事実だけで本当に嬉しいです。
私が上記の結論を望むのは、全くもってお門違いであることも重々承知しております。
ただ、もし仮に応援してくれるのでしたら、是非暖かく見守っていただければと思っております。
今後ともよろしくお願いいたします。
さて、今回のブログはここら辺で以上とさせていただこうと思いますが、皆さんはその「頑張り」を『認めてほしい派』ですか? それとも『認めてほしくない派』ですか?
是非、ご意見をお聞かせください!
もし、考えたことがなかったという方は、是非この機会に考えてみるのもいいかもしれません。
そうすることで、皆さんの「頑張り」の形も見えてくるかもしれませんからね!
それでは!
さて、今回はここで終わらせていただきます。
今後もこういった趣味のお話や私の独り言をブログに記していきますので、気に入っていただけたら再び足を運んでくれたら嬉しいです。
それでは、皆さんまたお会いしましょう。
さようならー。
コメント