皆さん、おはこんばんにちは。
雨宿時雨と申します。
さて、いつも少しふざけた(?)内容をお話している私ですが、今回は結構、というか至って真面目な話でもしようと思います。
今回お話の内容は、大分重い話になってしまいますが、児童虐待の話です。
まず、断っておきますが、別にショッキングな内容を載せるわけでは全くないですが、もしかしたら過去の記憶がフラッシュバックなどしてしまうかもしれませんので、こういう記事で気分を害される方は、ご注意していただくか、ご退出お願いいたします。
それを分かった上で、今回の記事はお読みください。
さて、ご忠告も済みましたので本題に入らせていただきます。
まず、なんでこんな暗い話題をお話しようと思ったかですが、最近、YouTubeを見ていたら、たまたま虐待に関する映画の予告がおすすめされ、映画を見たというわけではないものの、映画の概要的な動画を見て、少し虐待について考えてしまったというのがあったため、というのが1番の理由です。
理由としてもう1つ上がってくるのは、私が好きなアニメの中に「ひぐらしのなく頃に 解」という作品があるのですが、その中に虐待シーンがあったのを思い出して、つい先ほど見返してきたから、というのもあります。
映画やアニメ、ニュースなどで見ただけで、別に実体験というわけではないので、現実とは違うかもしれませんが、本質的な部分では同じだと思いますので、今回は少しお話していきたいと思います。
よく、「子どもにも人権がある」という言葉を耳にします。
当然、言葉の通り、子どもにも人権があって然るべきですし、それは例え、子どもの保護者であろうと、子どもの教師であろうと、誰が踏みにじって良いものではありません。
しかし、その実、子どもは大人の手の内でしか生きられません。
大人が子どもに寄り添い、指導することで、子どもは生きることができるのです。
子どもが大人の手も借りず、たった一人で、様々な言語や知識を学び、「お金を支払い衣食住を得る」などといった、この世の基本的なルールを覚え、それに従って生活することは、まず不可能と言っても過言ではないと思います。
だから、子どもは大人の指導を基に、様々な事柄を学び、人格形成を行いながら、その後の人生を生きていくしかないのです。
そして、ここで重要なのは、「子どもは大人の指導を基に生きていくしかない」という点であり、それすなわち、「大人の指導によっては子どもをどうとでもできる」ということです。
大人が子どもに対し、いかなる行為をしようとも、その子どもの中に生活の比較対象がない限りは、子どもの中に違和感があったとしても、生きていくためにはそれを普通だと思わざるを得ない、むしろ、比較対象がないのだから、それが普通だと思ってしまうのです。
更に厄介なのは、その生活が普通だと思っている、思わざるを得ない、あるいはそう思っていなくとも、生きていくためには大人が必要であるが故に、いかなる行為が発生しても、大人には歯向かうことができず、むしろ、そこに愛を求めてしまう、要は子どもは大人に「調教」されてしまうのです。
そうなれば、いくら良識のある周りの大人が手を差し伸べても、子どもはその大人から離れようとはせず、更に奥へ奥へと最悪の方向に進んでしまうのです。
つまり、「子どもにも人権がある」とは言いつつも、実質、その人権は子どもの保護者に委ねられてしまうということです。
そんな事実がこうして明白にあるのにも関わらず、警察や児童相談所は「子どもの人権」というあってないようなものを優先し、滅多に言うはずもない子どもの「保護してほしい」という言葉を待ってから、保護を決行します。
別に、警察や児童相談所を批判したいわけではありません。
間違えや過度な通報があるのも事実ですし、そもそもとして周りも全く気付かないようなケースがあるものまた事実であるため、入念に確認を取る必要があることは理解しています。
それに、「子どもの幸せ」という部分を考えても、子どもが嫌がっているのに無理に大人から離すのもどこか違う気がします。
無理に離してしまうのは楽ですし、周りの目から見て虐待が横行しているのは異常な光景です。
しかし、その子どもからしてみれば、それが普通だと思っているわけですし、周りから見たら偽物でも、もしかしたら、その子には本物の愛が映っているかもしれません。
それを「それは偽物だ」、そう目を覚まさせてあげるのは、結果的には良いことなのかもしれませんが、当時の子どもにとっては非常に酷なことであり、目を覚まさせる行為そのものが、単なる私たちのエゴに成り下がるかもしれません。
それを考えると、警察や児童相談所が簡単に子どもを保護しないのも理解できますし、むしろ、入念な確認は必要だとまで思ってしまいます。
児童虐待の本質は元を辿れば、その後のことを考えず、いや、考える知性もないのに性交渉をしてしまう、理性の欠片も全くなく、知能が野生の猿並みのバカでアホな、ただただ身勝手な大人のせいではありますが、「バカは死なんと直りゃあせん」という言葉の通り、バカは自分がバカであることすらも理解できないため、死なない限りは直ることはありません。
であれば、その保護者の保護者、要するに子どもから見れば祖父母などの親戚にとも思いますが、「カエルの子はカエル」という言葉があるように、「カエルの親はカエル」、つまり差して変わりはしないということです。
では、周りの大人はどうでしょうか。
警察や児童相談所などの公的機関ですら子どもを救うのに手間を取るというのに、一般の大人たちがそれを救い出すことはまず難しいと思います。
じゃあ、一体誰が子どもを救えるのでしょうか。
その答えは正しく「子ども自身」ではないでしょうか。
子どもが助かる方法は、子ども自身が自分の置かれている環境に気づき、周りの差し伸べる手に助けを求めるしか他はありません。
しかしながら、それは先ほど説明した通り、容易なことではなく、むしろ、子ども自ら嫌がってしまう事柄となってしまいます。
それが、児童虐待の一番の「矛盾点」だと、私は思います。
他にも言いたいことはありますが、今回はここで終わりにしておきたいと思います。
皆さんは、児童虐待についてどう思いますでしょうか。
良かったら、コメント等お待ちしております。
それでは!
さて、今回はここで終わらせていただきます。
今後もこういった趣味のお話や私の独り言をブログに記していきますので、気に入っていただけたら再び足を運んでくれたら嬉しいです。
それでは、皆さんまたお会いしましょう。
さようならー。
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