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私たちが本音で生きられない理由 ~便利さと豊かさの代償~

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皆さん、おはこんばんにちは。

雨宿時雨と申します。

 

突然ですが、私は仕事が大嫌いな人間です。

『出来ることならば一生働かずに生きていたい』…そう願うほどには仕事が嫌いです。

 

さて、前置きもなく皆さんには私の本音を聞いていただきましたが、果たして皆さんは私の本音をどのように思われましたでしょうか。

たった二言の突拍子もない本音に拍子抜けした方もいれば、中には同調の念を抱いていただいた方もいらっしゃるかもしれません。

 

もちろん、上記のような本音を持っているとはいえ、”働かなくても生きていける”…などという甘い世の中があるはずもありませんので、生きるためのお金を働いて得ているのが今の現状です。

そうした実情にあるのは、恐らく私の本音に同調された方も同じことでしょう。

 

しかして、だからなのでしょうか。

世の人々の中には「『働きたくない』という本音を漏らす者」或いは「本音通りに働かない者」を”社会不適合者”などと罵る人たちが一定数存在します。

 

確かに、先も言ったように働かずに生きていけるほど甘い世の中ではありませんから、私同様に嫌でも働かなくてはいけない人々が大半であって、そうした実情がある以上は『働くこと』が”社会的常識”と言えます。

つまり逆を返せば、そうした実情があるにも関わらず「『働くこと』の意思がない者」は「社会的常識が身についていない者」即ち「社会に不適切/不適合な者」と言えますでしょう。

 

とは言え、とある調査では『日本人の約3割が仕事嫌い』というデータも出ているように、私同様『嫌でも働いている』という人が一定数いることも確かです。

数にしてみれば社会人の3人に1人が仕事嫌いなわけですから、それなりに多いことは否定できないでしょう。

 

しかして、そこまで多くの人が腹に一物を据えつつ何も言わずに仕事をしている現代の世の中で、”社会不適合者”と罵られている光景をそう多くは見たことがありません。

もちろん、そこには『実際には「働いている」という事実を持ち合わせている』という要因が大きく作用していることでしょう。

ただ、個人的に最も大きな要因として考えられるのは『「働きたくない」という本音を公にしない』という所にあるのではないかとも思うのです。

 

少し話を変えましょう。

先ほど私は「仕事嫌い」という本音をお話しましたが、本音ついでにもう2つほどお話します。

 

私は子どもが好きではありません。

そして、それと同様に犬も好きではありません。

 

さて、上記のような本音については如何でしょうか。

先ほどの仕事に対する本音同様、私に同調の念を抱いていただける方もいるかもしれません。

 

しかし、やはりこうした本音も世の人々には大きく顰蹙を買います。

上記の本音の場合、酷い時には”悪者扱い””人外扱い”までされて蔑まれるケースもあるくらいです。

そうした実態にあるのはGoogleなどの検索エンジンのサジェストをご覧いただければ明白でしょう。

 

とは言え、こうした本音を持つ人物は仕事の件と同様、必ずある一定数は存在するものです。

実際、とある調査における子ども嫌い、動物嫌いの割は双方3割程度であることが分かっています。

 

街で3人すれ違えば1人は「嫌い」という本音を持つ人がいるはずの上記の本音。

それだけの割合の人がそういった本音を持っているにも関わらず、やはり世間では顰蹙を買っている人物や蔑まれている人物をそう多くは目にしません。

もちろん、逆を返せば3割『もの』人がそうした本音を持っているわけですから、それなりに発言権が認められているという可能性も少なからずあるとは思います。

そうは言っても、そもそもそうした本音をそこまで多くの人が公にしているところを見たことがないのがやはり現実です。

 

もちろん、そうした”本音を隠す”という行為は何も上記の例に限った話ではありません。

どれだけ嫌悪感を抱く状況であっても、そうしたことは一切口に出さずに何処かで我慢や妥協をしている人は多かれ少なかれいることでしょう。

それは現代が“ストレス社会”と呼ばれている様からも容易に想像できます。

 

しかして、ここで一つの疑問が生まれます。

なぜ社会的にストレスを溜め込んでいる世の中の現状を鑑みても、大多数の人が本音を言わないでいるのでしょうか。

 

単純な話、ストレスを抱えるほど嫌なのであれば、はっきり「嫌だ」と伝えた方がストレスを多少なりとも軽減させることができるでしょう。

それを多くの人が理解していると思うのですが、その一方でやはり上記の通りに多くの人は本音を隠すことでストレスを自ら溜め込もうとします。

正直な事を言ってしまえば、そうした行為はある意味『自業自得』と捉えられても何ら不思議ではありません。

にも関わらず、なぜ多くの人はこうした”不毛な”我慢をしているのでしょうか。

 

…などと疑問口調で問うておりますが、その理由は私を含めて多くの方々が自覚していることでしょう。

つまるところ、『本音を口にする』という行為は社会的リスクが大きいからです。

 

お分かりかと思いますが、人は本音と行動が必ずしもイコールになるとは限りません。

上記の例で言えば、「仕事嫌い」でもある程度仕事は熟しますし、「子ども嫌い」や「動物嫌い」でも子どもや動物に対して虐待的行為を働くことはありません。

本音では「嫌い」であってもその対象物を無碍にする訳ではなく、あくまで単純に事実として『嫌い』と思っているだけにしか過ぎないのです。

 

しかし、上記の通りにそうした本音に嫌悪感を抱き、許さない人物が一定数存在します。

もちろん、何とも思われない人物も一定数存在するでしょうし、逆に理解を示してくれる人物も一定数存在することでしょう。

とは言え、それらの人物から外面的に肯定して貰えるかは定かではありません。

 

そもそもとして、周囲環境における割合が世論調査と同じ割合になるとも限りません。

要するに、私が「一定数いる」と言い放った嫌悪感を抱かれる人物、何とも思われない人物、理解を示してくれる人物の割合が実際のところ如何様になるのかは計り知れないということです。

とどのつまり、どれだけの人物がその本音に対して嫌悪感を抱くのかが分からないのです。

 

極端な話をすれば、周囲の人物は皆揃って「好き」と答える中で自分一人だけが「嫌い」という本音を持っている状況もあり得ます。

そうした中で本音を口にすれば、周囲との関係にヒビか入り、社会的信頼を失い、孤立する可能性があるのは言うまでもありません。

 

実社会における”他者からの信頼”が如何に重要なものであるかは皆さんもご存知の通りだと思います。

仮に上記のような超少数派の本音であったとすれば、その本音を口にした瞬間、最悪そうした重要なものを失う可能性があるのです。

 

もちろん、あくまで可能性の話にしかなり得ませんが、逆を言えば、本当にそうなり得ることもあるということです。

そうして考えれば、「本音を口にする」という行為が如何にリスキーなものであるかが見えてくると思います。

 

また、ポジティブな見方をすれば、リスクを減らす他にも『他者への配慮』という言い方もできます。

 

先も言った通り、世論通りにいかない周囲環境はその本音に対し、どれだけの人が嫌悪感を抱くかは計り知れません。

もし仮に先程のような超少数派の本音であれば、多くの人に嫌な思いをさせることがあるかもしれません。

 

しかして考えてみれば、本音を口にする理由は他者に不快感を与えることが目的なのではなく、あくまで己の欲求発散の為にしか他なりません。

言い方を悪くして逆説的に言えば、そうした傲慢な理由で本音を口にすることで、意図しない他者への不快感を煽っているとも言えます。

もちろん、あくまで”意地悪な見方をすれば”の話ではありますが、実際そのように捉えられる方も少なくはないでしょう。

 

そうした捉え方をした時、『自己欲求が発散できるなら…』と考える人がいる一方、『意図しない不快感を煽るくらいならば、本音を口にしないようにしよう』と考える人がいるのは必然的です。

確かに、それは他者から見れば”自己犠牲”とも捉えられるかもしれませんが、彼らからすれば「自己より他者が優先」なのです。

 

そうした他者を思いやり重んじる心、所謂”人情”が特に本国・日本には強く存在します。

その証拠に、日本には『おもてなし』の精神というものがあるのは皆さんご存知でしょう。

この『おもてなし』は正しく”人情”の賜物です。

 

もちろん、「情けは人の為ならず」という言葉もある通り、最終的には自らの得を積むための”偽善”かもしれません。

ただ事実として、そうした”人情”が国としての評価を底上げしてきたのは言うまでもありません。

 

そうした国民性は、現代の法律からも垣間見ることができます。

 

ここまで、さも「本音を口にしてはいけない」と言わんばかりの主張をしてきましたが、現代における法律では言論の自由が認められています。

もちろん、罵詈雑言はその許容を越えますが、あくまで個人の域を出ない本音であれば特段制限される云われはありません。

ただし、個人の域を越えて他者へ影響を及ぼす時、その本音は言論の自由の範疇にはありません。

これを皆さんご存知「公共の福祉」と言います。

 

この「公共の福祉」は何も言論だけに留まるものではありません。

行動や表現…等々、あらゆる分野において他者を思い、重んじ、配慮をするよう呼びかけられています。

要するに、現行の法律に基づいては『様々な人権的自由は認めるけれど、他者を思い合った言動をしなければならない』と定められているのです。

 

このように本国・日本では所謂”人情”と呼ばれる『他者への配慮』が至る所に転がっています。

日本人がよく「意見を言わない」「本音を口にしない」と言われる所以は、こうした『他者への配慮』が無意識的に出来てしまう国民性が原因でもあるでしょう。

 

さて、ここまでをまとめると、多くの人がストレスを溜めてでも本音を口にしない理由には、良いように言えば『他者への配慮』、悪く言えば『リスク管理』があることが分かりました。

こうして全体像を俯瞰してみると、私達が本音を口にしない理由、もっと言えば、私達がストレスを溜め込んでいる理由は『他者の存在』に集約することがよく分かります。

 

とは言え、何も「他者自身が悪い」と言いたい訳ではありません。

本音を受け取る側が本音を忌み嫌うのは、私達がリスクを恐れて本音を口にしないのと同様に、「そうなるかもしれない」という可能性を秘める者を排除しようとするリスク管理が原因であるわけです。

それは私達が動物の頃から備わっている”防衛本能”がある故の話ですから、誰に責められた話ではありません。

私が言いたいのは『他者という存在があること自体が問題である』ということです。

 

先の通りに異なる意見を排他的に扱うのは、生物としての本能があるため致し方のないことと言えます。

ならば、意見を明確に意思表示できる人間は本来「個」として生きるべきであって、集団的生活を送るべきではないのです。

事実、人間がまだ狩猟をしていた時代は個として生活することの方が多くありました。

 

しかし現代においては、本来在るはずのない『他者の存在』がストレスの原因として個を脅かすほど強く深く根付いています。

では、それは一体なぜなのでしょうか。

 

その理由は至ってシンプルです。

要するに『他者の存在』がある方が便利だからです。

 

先ほど狩猟時代の話をしましたが、必ずしも一人で狩猟をしていた訳ではないことは皆さんもご承知の通りでしょう。

ナウマン象や大ツノジカ等の大きな獲物は流石に一人では狩猟できないことから、基本的には集団での狩猟を主としていました。

 

また、以前ブログでも紹介した通りに個人の狩猟には向き不向きが存在し、狩猟できる食料に偏りが出がちになります。

そうしたことを解消するため、穫れ過ぎた物同士を他者と交換する”物々交換”を始めた挙げ句、更に発展を重ね、己の得意とするものを生業する”商売”が始まるようになるのです。

 

上記の通り、物理的、能力的に自分一人の力だけでは不足していて適わないことを成し遂げるのには『他者の存在』がある方が便利なのです。

それは上記のような大昔の話だけではなく、戦後の日本が高度経済成長期を乗り越えてきた経緯からもお察しの通り、今現在の社会においても変わりのないことではあります。

 

しかして、そもそも大きな狩猟をせずに個々人で出来る限りの狩猟生活を送ってさえいれば、或いは、現状の狩猟生活に満足さえしていれば、わざわざ『他者の存在』を媒介する必要はなかったのではないでしょうか。

もちろん、そうした関わりがあったお陰で文明レベルが格段に上がり、今現在の豊かで便利な暮らしがあるのは言うまでもありません。

とは言え、そうした便利さを追い求めるが故、いつの間にか必要不可欠なものになった『他者の存在』が己の心身を蝕むストレスとなっていては意味がないのではないでしょうか。

 

繰り返しになりますが、現代が”ストレス社会”と呼ばれるようになった所以は、私達がストレスよりも便利さを追い求めた結果、『他者の存在』に依存するようになったためです。

言い換えれば、そうした人間の傲慢さが自らを苦しめている鎖になっているのです。

もちろん、上記の通りに決して悪いことばかりではありませんし、私自身もその恩恵を実直に受けているのは間違いありません。

 

しかして、本当に自らを苦しめてでも便利さを追い求める、即ち傲慢であるべきなのでしょうか。

一人でも現状に満足し、足るを知る者はいないのでしょうか。

 

『言いたいことも言えないこんな世の中じゃ』などと歌われた本音を口にできない現代を作り上げ、”ストレス社会”という自らの檻に閉じ込められた私達。

そんな現状を鑑みていただき、皆さんも今一度『便利さ・豊かさとは何か』を考えてみてはいかがでしょうか。


さて、今回はここで終わらせていただきます。

今後もこういった趣味のお話や私の独り言をブログに記していきますので、気に入っていただけたら再び足を運んでくれたら嬉しいです。

それでは、皆さんまたお会いしましょう。

さようならー。

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