• 時雨ブログ

ようこそ、雨宿りのひとときへ! ゆっくりしていってね!          

もしも、今日が最期なら

音楽

BGMを

リリック

今日世界が終わってしまうなら 僕は何をして過ごすのだろう

今日世界が終わってしまうなら 君に何をしてあげられるだろう

 

「おはよう」 「おやすみ」 「ただいま」 「おかえり」 交わした言葉もその温もりも

何気なく見ていた景色も 終わりがあること知らずに過ごす日和

 

今日のよに明日を迎える ありふれてる当たり前の約束で

ただ幸せに慣れ そこにあるものでさえ見えずにいた

 

今日世界が続いていたなら 僕は普通を噛み締めていたい

今日世界が続いていたなら 君を抱きしめ愛を伝えたい

 

時よ戻れよ 時よ戻れよ 紡ぐ言葉に意味などなくて

立ち止まれずに日々は続いてく 後悔 悲しみ 拭えず 歩む道

 

「もしも、また」 なんてなかった 「離さない」と誓える二度目もなくて

あの日々が愛しい いつかの最期を迎え今気づいた

 

目の前で消える灯火(ひ)と 知らぬ間に消える声

苛まれる無力さ 背負えない虚しさ

 

頬の跡 乾いた涙 食いしばってる口元 握る掌

まだ帰るあてはない それでも陽はまた昇る

 

帰らない君との記憶 胸の奥が切なくて暖かい

きっと癒えることはない それでも心(ここ)にあるから前を向ける

 

ありがとう

 

さよなら

 

ありがとう

 

もしも、また会えたら

インスト音源 / コード譜 配布
制作者コメント

皆さん、おはこんばんにちは。

雨宿時雨と申します。

 

さて、新曲『もしも、今日が最期なら』はいかがでしたでしょうか。

今回でとうとう第十曲目ということで、感覚としては大台に乗ったような気がしておりますが、今回はバラード楽曲で奇しくもめでたいと言える雰囲気ではなくなってしまいました。

その意味では、前回楽曲『エールをくれた君へ』の方が雰囲気的にも、技量的にも合致しており、リリースの順番を見合わせるべきだったようにも思います。

とは言え、言葉というものは鮮度も大切な要素ではありますから、伝えたい想いを思い立った時に伝えられたことは非常に価値があったようにも思っております。

 

また、自惚れ交じりにもう一つ付け加えて言うのなら、曲としての完成度、云わば“まとまり”に関しては過去作品の中でも割と高い評価が出来ると自負しております。

勿論、バラード故の楽器数の少なさも手伝った上に、各楽器の技量が高いとも言えはしないのですが、その事実の裏を返すと、本楽曲の構成はとてもシンプルということでもあります。

もう少し詳細にお伝えすると、楽器構成としてはピアノとアコギを中心に、ベース、ドラム、ストリングスのみを使用させていただいており、なるべく各楽器の手数を減らし、角の立たない音源を選定いたしました。

結果、イントロや間奏を含むこともない最も基礎的でシンプルな構成へと立ち返ることとなり、曲としてのまとまりが高く、完成度の高い仕上がりになったわけです。

それは嫌な言い方をすれば、挑戦心のない守りの楽曲とも捉えられ兼ねませんが、個人的には内容に則した形で仕上げられたことも、何より、第十曲目にして最もシンプルなバンド構成の楽曲を仕上げられたことも非常に満足のいく結果だと感じております。

 

そして、そんな新曲の内容はまさしくタイトルの通りであり、「今日世界が終わってしまうなら」という歌い出しの歌詞から始まる1番のAメロは本作品において実直な問いかけとなっております。

「人は失った時に初めて気付く」とよく言われますが、対象が人であれ動物であれ物であれ、常日頃大切だと実感して丁重に扱っていたとしても、それらを失った時の悲しみや後悔を拭うことは中々容易ではないと私は思っております。

恐らくそれは抗いようのない自然的、突発的な現象であっても同じことでしょう。

 

今回そうしたテーマに着目した理由は、私がある一つの広告の存在を知ったからです。

それが「最期だとわかっていたなら」と題されて公開されている岩手日報の東日本大震災へのキャンペーン広告です。

とあるニュースを拝見して初めて知った当広告は、東日本大震災を風化させないことを目的に、毎年3月11日を「大切な人を想う日に」と銘を打って、2017年から被災者遺族の想いを動画広告として公開しており、その内容の素晴らしさから道徳の授業の学校教材としても用いられているそうです。

以下に掲載させていただきますので、興味、お時間があれば是非一度ご覧ください。

 

こうした素晴らしい広告があったわけですが、実を言うと、上記のニュースを拝見している際、感心や感動もさることながら、それ以上に本楽曲のAメロのメロディーラインがふと頭を過り、その勢いでサビのメロディーまで完成させたというのが誕生秘話になります。

当然、そうした一つのニュースからインスピレーションを受けた楽曲ですから、テーマもその内容に則したものにするのが道理ということで「最期であったなら」という仮定に着目させていただいたわけですが、上記の歌詞を見ていただくと分かる通り、本楽曲には地震などの最期の原因となる言葉を一切含んでおりません。

そこには、突然の別れというものはいつ如何なる時でもすぐ傍に存在している、という明確な理由があるからです。

 

地震などの自然的要因、交通事故などの人為的要因、心筋梗塞や自死などの個人的な身体的、精神的要因…等々、人は様々な要因によって自然的、突発的に死に至り、別れを余儀なくされることがあります。

そうした時、死者に対して生前どのような態度をとっていたにしても、多かれ少なかれ先述の通りに後悔や悲しみを抱き、その傷を癒すことが出来ないままに長い年月を過ごす方も多いと思います。

しかし、生前培ってきた死者との想い出は、その傷を完全に癒すことが出来ずとも冷えた心を温めてくれるきっかけになることもあります。

 

だからこそ、今生きているこの瞬間、その一瞬一瞬の行動こそが何よりも大事になるのです。

後悔や悲しみで終わらない、或いは出来るだけ少なくする為だけではなく、失った時の拠り所とする記憶を少しでも多く紡ぐ為にも行動する、というわけです。

そして、そこで「もしも、今日が最期なら…」と仮定することは、そうした行動の指針となるのです。

 

歌詞の中にもありますが、人は目の前にあるものにはいつの間にか慣れてしまい、時として「灯台下暗し」ということわざの如く、見失ってしまうことが多々あります。

しかし、先述の通りに突然の別れはすぐ傍にあるもので、諸行無常、万物流転などという言葉の通り、いつでも目の前にあると思っているものは、あくまで慣れからくる思い込みによる幻想に過ぎないものです。

そんな幻想に踊らされている内、いざ本当に大切なものを失った時、まさに「覆水盆に返らず」とはよく言うようにどれだけ願い、誓っても、時間やその人自身が元に戻ることは二度となく、気持ちや感情の整理が追いつくことのないまま、悲鳴さえも上げられないことなどお構いなしに、日々は無情にも刻一刻と過ぎ去っていくのです。

こうした日々に陥った時、「過去どのような記憶を紡いでいたならば、少しでも救われた気持ちになれるのか」を想像する、それこそが「もしも、今日が最期なら…」を仮定するということです。

 

本楽曲は1番で充足した日々に慣れる様子を、2番でその日々を失う様子を、大サビでは日々を失った現状把握と記憶の追想による原状復帰の様子を描いており、「もしも、今日が最期なら…」という仮定の追体験が出来るようになっております。

そして、仮定から再び現状に再起できるようリバースピアノを本楽曲の一番最後の締めに起用させていただいた他、僭越ながら少しでも教訓めいた仕上がりになるよう、多くの人が馴染みやすいシルエット調の絵柄を軸にした絵本形式のMVにも仕上げております。

無論、「なので」と言うのは烏滸がましいことであることは存じておりますが、是非皆さんには今一度「もしも、今日が最期なら…」を仮定していただきたく存じます。

 

さて、今回の新曲『もしも、今日が最期なら』を視聴して、皆さんは今何がしたいと思いましたか。

本楽曲の最後にある「もしも、また会えたら」、この歌詞に続く言葉として皆さんは何を思い描いたでしょうか。

 

それを導き出すことこそが未来の皆さんの糧となり、今を生きる皆さんの指針となると、押しつけがましくも信じております。

そして、本楽曲『もしも、今日が最期なら』がその機会になれたならば幸いです。


さて、今回はここで終わらせていただきます。

是非ご感想をお聞かせいただけたら幸いです。

それでは、皆さんまたお会いしましょう。

さようならー。

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